『母と暮せば』と『父と暮せば』<小人閑居日記 2015.12.18.>
山田洋次監督の映画『母と暮せば』を観た。 井上ひさし原作の『父と暮せば』は、こまつ座の芝居を2004年7月に観て、その8月に黒木和雄監督の映画も観た。 芝居は父・福吉(ふくよし)竹造を辻萬長、娘・福吉美津江を西尾まりが演じ、映画では父を原田芳雄、娘を宮沢りえ、芝居には出てこない木下青年を浅野忠信が演じた。 昭和20(1945)年8月6日の広島の原爆で、父は死んだが、娘は生き残った。 「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思い込んだ娘は、勤め先の図書館で知り合った青年への恋心を無理やり押さえつけようとする。 そこへ父・竹造が現れ、「恋の応援団長」を名乗って、なだめ、すかし、「じゃこ味噌」をつくり、青年のために風呂を焚き、娘が心を開いて幸せになるようにと、奮闘するのだった。
井上ひさしさんは、広島の『父と暮せば』と対になる、長崎の『母と暮せば』を書きたいと言い、資料を集めていたという。 2007年、長崎九条の会主催の講演会で、「どうしても今度は長崎を書かなければならないわけです」、「しばらくは長崎言葉を勉強して、今度は『母と暮せば』というタイトルで書こうかと」と、語っていたそうだ。 井上ひさしさんは2010年4月に亡くなった。 3年半ほど前、三女でこまつ座社長の井上麻矢さんが、プロデューサーの榎望さんに相談し、2013年初夏、山田洋次監督にお願いに行く。 ひさしさんと山田監督とはシナリオの共作もあり、親交があった。 タイトルを耳にした山田監督は、たちまちアイデアが浮かんだようで、1週間ほどで快諾したという。
『母と暮せば』は、昭和20(1945)年8月9日朝、長崎医科大生の福原浩二(二宮和也)が慌ただしく坂の上の家を出て、学校へ出かけるところから始まる。 母の伸子(吉永小百合)は助産婦で、夫を結核で亡くし、長男も戦死して、二人暮しだった。 浩二は満員の市電にぶら下がって、階段教室の席に着き、川上教授(橋爪功)の心臓の講義がはじまる。
「プルトニウム爆弾」(広島に投下されたのは「ウラン爆弾」)を積んだアメリカ軍のB29「ボックスカー号」(広島は「エノラ・ゲイ号」)が、第一目標の小倉上空へ向かう。 操縦席から見下ろす小倉は、雲に覆われていた。 「目視投下」を厳命されていた「ボックスカー号」は、第二目標の長崎上空へ向かう。 長崎もまた、雲に覆われていた。 だが、長崎上空に達すると、一瞬、雲が晴れて、市街地が目視できた。
階段教室の机にインク壺を置いてノートを取っていた浩二は、11時2分、突然の青白い閃光、凄まじい轟音に包まれた。 インク壺が、ぐにゃりと歪んだ。
三年が経った、昭和23(1948)年<小人閑居日記 2015.12.19.>
『母と暮せば』、母の伸子は浩二を探し歩くが、あの一瞬に消えていて、遺品の一つも見つからない。 三年が経った。 原爆の日、動員されていた工場を腹痛で休んで助かった、浩二の恋人(婚約者? 親戚? 伸子が「町子」と呼び捨てにするのが気になる、と家内も言う。)で小学校の先生になっている町子(黒木華)は、たびたび伸子を訪ねて慰め、手伝ってくれている。 その日8月9日は卵を持って来てくれて、二人で墓参りに行くが、伸子は町子に「もう、浩二のことはあきらめよう」と宣言する。 伸子はその夜、卵焼きをつくり、今日で陰膳をやめよう、と独り言を言っていると、後ろに気配がする。 階段に、学生服の浩二が座って、笑いかけていたのだ。 「あんた、浩ちゃん?」 「母さんは、いつまでもぼくのことをあきらめんから出て来られんかったとさ」 『父と暮せば』は原爆で死んだ父の亡霊が娘を励まし、『母と暮せば』は息子の亡霊が母に、ちゃんと血圧の薬は飲んでいるか、と尋ねる。 「あんたは元気?」 「元気なわけなかやろう。ぼくは死んでいるんだよ。母さん、相変わらずおとぼけやね」
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