小泉信三の戦争、慶應義塾を守る苦闘
2024-02-24


2月15日にNHK BSで放送された「岩田剛典が見つめた戦争 小泉信三 若者たちに 言えなかったことば」を、録画しておいて見た。 素晴らしい番組だった。 都倉武之さん(慶應義塾福沢研究センター准教授)が、的確な資料を用意して全面的に参加していたのが、大きく貢献したのだろう。 実は、岩田剛典(たかのり)さんを知らなかった。 三代目J SOUL BROTHERSのパフォーマーで、慶應義塾の普通部、高校から、2011年の大学法学部卒業の34歳という。

 小泉信三は、昭和8(1933)年11月、45歳で慶應義塾塾長に就任した。 昭和16(1941)年、長男信吉(しんきち)慶應義塾大学経済学部卒業、三菱銀行に4か月勤務、8月海軍経理学校入校、海軍主計中尉任官。 昭和17(1942)年10月、長男信吉南太平洋方面で戦死(24歳)。 昭和18(1943)年12月、出陣塾生壮行会で訓示。 昭和20(1945)年3月25日、空襲により罹災。病院のベッドで玉音放送を聞く。 昭和21(1946)年、東宮御教育参与就任。 昭和22(1947)年1月、慶應義塾塾長退任。

 昭和10年代には次第に、「福澤思想抹殺論」が出回り、慶應義塾は西洋の自由主義を日本に入れた福澤諭吉の学校として、言わば国賊のように見られるようにもなっていた。 番組に出てきた、その典型としての徳富蘇峰の福沢批判と小泉の反論を、今村武雄さんの『小泉信三伝』で読んでみたい。

 徳富蘇峰は、昭和19(1944)年3月、言論報国会の機関誌『言論報国』「蘇翁漫談」で、(1)福沢先生は西洋のことを無茶苦茶に輸入し、日本のことをことごとく壊す方針でやってきた、(2)福沢先生その人は愛国者だったが、その議論だけは非常に困った、(3)福沢先生の教えは、個人主義である、として、その教えを奉ずるものは国家の大事に無頓着である、今日の戦さでも、誰が戦さをしているか、まるでほかの人が戦さをしている、それをただながめているようなわけで、独立自尊でやっていく以上は、愛国ということなどとは縁が遠くならざるを得ないとした。

 小泉信三は、これに反論した。(5月10日『三田新聞』「徳富蘇峯氏の福澤先生評論について―先生の国権論その他―」) (2)福沢の多くの著述をあげ、すべて終始かわることのない国権皇張論だったとし、当時、福沢の心を圧迫したことは、西欧諸国、なかでも英国のアジア侵略であって、この強大な勢力の前に、いかにして、わが国の独立をまっとうするかということで、それには、わが国を文明に進めるほかない。 「今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり」(『文明論之概略』) (1)には、『学問のすゝめ』第15編から開化者流の西洋盲信を警めたくだりを引いた。
 (3)福沢の教えを奉じる者といえば、われわれ同窓の者すべてであるが、そのなかの幾千百の青壮年は、いま陸に海に空に戦っている。 彼らはみな福沢の名を口にすればえりを正す者だが、彼らのすべてが非愛国者だと徳富は言うのか、まさかそんなことはないはずで、この一段の言葉は不穏当のきらいがあると反論した。

なお、徳富蘇峰は、明治23(1890)年4月『国民之友』80号に、福沢の『文字之教』を読み、福沢について、世間が認める新日本の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者としての福沢の役割、日本文学が福沢に負うところの多いことを説明するのに、この本が「大なる案内者」となる、と書いていた。 福沢が、すでに明治6年の時点で、平易質実、だれでも読むことができ、だれでも理解できる「平民的文学」に注意したことを知るのだ、と。
中川眞弥先生の講演「『文字之教』を読む−徳富蘇峰の指摘−」<小人閑居日記 2016.2.7.>
徳富蘇峰の挙げた福沢文章の特色<小人閑居日記 2016.2.8.>

 番組が扱ったこの時期の、慶應義塾と小泉信三塾長について、私は下記を書いていた。
日本史上最大の事件と慶應義塾<小人閑居日記 2007.7.10.>
戦時下の慶應、小泉信三塾長<小人閑居日記 2007.7.11.>

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