小泉信三さんについて、私が今まで書いたものの一覧を出そうと思っている。 その中で、ネットのブログで読めないものの一つに、この等々力短信「熱海の雪崩」があった。 興味深い話なので、「マクラ」として再録しておく。
等々力短信 第1023号 2011(平成23)年5月25日 熱海の雪崩
「熱海の雪崩」が、ずっと気にかかっていた。 『慶應義塾史事典』のVII「社中の人びと」の「阿部泰蔵」の項目にある。 阿部泰蔵は、三河国下吉田(現愛知県新城市)生れ、慶應4(1868)年に福沢の塾に入り、明治2(1869)年には慶應義塾の教員となり、その年3か月ほど塾長も務めた。 当時は当番制、交代で塾長に任じたものだったそうだ。 福沢門下生の保険事業を実行しようという動きの中、その中核として阿部に白羽の矢が立ち、明治4(1871)年7月、日本最初の生命保険会社明治生命の創業者となる。 水上滝太郎(阿部章蔵)が四男なのは、小泉信三の著作でよく知られている。
私の引っ掛かっていた記述は、「(大正)八年熱海温泉に逗留中、雪崩の被害に遭い瀕死の重傷を負う。以後自宅で療養、一三年一〇月二二日没、享年七五。」 温暖な熱海に雪は降ることはあったとしても、雪崩があったのだろうか、ということだった。
5月16日、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会で三田に行き、次の予定まで一時間ほどの時間があったので、卒業以来40数年ぶりに図書館に入った。 塾員(卒業生)は、慶應カードで入れてくれる。 レファレンス・カウンターで尋ねて、『慶應義塾史事典』の参考文献にあった明治生命保険相互会社編『本邦生命保険創業者 阿部泰蔵伝』(1971年)を、地下2階の書庫で探し出す。 第一三章 終焉 一「奇禍に遭う」に、当時明治生命大阪支店副長だった阿部章蔵の、後年の追憶が引用されている。
「大正八年二月、父は鈴木旅館に入湯中、雪崩(なだれ=ルビ)の為に浴室の天井の厚硝子が砕け、大腿部を深く剥(えぐ)られてあやふく即死せんとし、爾来六年間病床を離れる事が出来ず、晩年を苦痛のうちに終った。」 おそらく、これが『慶應義塾史事典』の、基だろう。 『水上滝太郎全集』十二巻13-4頁の引用とあったので、カウンターで見覚えたKOSMOSの端末を叩いて、地下3階にあった現物を読む。 その時、『水上滝太郎全集』の端に立っていた「補遺・年譜・索引」の袋を一緒に手にしたのがヒットだった。 年譜「大正八年(三十三歳)」「二月三日、父泰蔵、熱海温泉鈴木旅館に於て、入浴中、積雪の為玻璃窓砕け大腿部に重傷、爾来六年間病床を離れ得ざるに至る」。 「雪崩」よりも「積雪」で天井のガラスが割れたという方が、妥当ではなかろうか。
気象庁お天気相談所と、そこから回された静岡気象台防災業務課にも電話してみたが、大正8(1919)年2月3日(福沢諭吉命日)の熱海の積雪の記録は確認できなかった。
セコメントをする