一人でやって来た茅乃の頼み
2024-04-26


 東条の楠木家、改元の準備で遅れた正月の仕度をようやく終え、小宴をしていると、弁内侍が一人でやってきた。 人払いをというのを、弟と従兄弟、股肱の者だから、この者らがいる場所で言えぬようならば、私も聞けぬ、と。 他言無用でとして、主上の御命が危ないので、お味方になってくれ、と言う。 改元の儀式の最中、主上が襲われた、一人でお籠もりになっているところに、刺客が隠し扉から入ってきた。 主上は、音に気付いて、その隠し扉から逃げたため、怪我もなかった。 隠し扉など易々と作れるものではない、廷臣の中に裏切り者がいるに違いない、と。

 北朝は大きな地盤を持っているため、勢力の差は時を追うごとに開きつつある。 南朝は追い詰められつつあり、この流れを変えるために、朝議で改元の話がまとまった。 ここから再び「正しく世を平らにする」という確固たる意志を、諸勢力に伝えるため「正平」に改元することになったのだ。

 「今、確かに帝は危い状況なのだろう。だがそれは廷臣たちが招いた事態であり、彼らの手によって解決すべきことと存じます」、多聞丸は落ち着いた口調で突き放した。 楠木が巻き込まれる所以はない、実は楠木が北朝につこうという新たな道を進もうとしている今、関わるべきではないとも考えている。 茅乃は項垂れた。 此度のことは聞かなかったことにしてお送りしましょう、と言い掛けた時、茅乃がか細い声で話し始めた。 「もし……もし、とある百姓が今まさに賊に襲われているとします。その百姓の子が、父を助けて欲しいと駆け込んで来たならば、楠木様は如何になさいます。お助けになるのではないですか」 「助けに駆け付けるだろう」 「何故、主上だけ……お見捨てになるのです」 茅乃の言い分に理がある、今少し、本心を語る必要がある。

 「父は朝廷に殺された。私はそう思っています。」「そう単純な話ではないことは重々承知です。しかし、父が先帝に身命を賭して尽くしながら、最後に死地に赴かねばならなかったことは事実です。少なくとも先帝はお止めにはならなかった……」 「朝廷を……お恨みになっているのですね」 「さて……正直なところよく判っていません。恨んでいるのは死地に向かわせた廷臣なのか、止めて下さらなかった先帝なのか、それとも無邪気に父を英傑に仕立てた世間なのか。あの日、縋りついてでも止められなかった己自身なのかもしれません」 多聞丸は胸の内を吐露した。 賢しい茅乃のことだから、今後の楠木の動向も朧気に判ってしまったかもしれない。 「解りました……」茅乃は雫が水面に落ちるような小さな声で言った。 そして、最後に一つだけと断り、「先帝と今帝は別です。楠木様と御父上が別であるように。それだけは……」 多聞丸が、己に、救うべき相手が帝でなければ、訪ねて来たのが茅乃でなければ、果たして己はこのように迷いもしただろうか、自問自答していると、茅乃はすっと立ち上がると身を翻した。 小さな風が起こる。 鼻先に触れたのは、僅かに残った香の匂いだけではない。 ここまで必死にやってきたことによる生きる人の匂いであった。

 「待たれよ」 その時、思わず口を衝いて出た。 茅乃は振り返らない。 「一人で来たのです。送って頂かずとも――」 「いや、やろう」 「え……」 茅乃は吃驚(きっきょう)に声を詰まらせる。 新兵衛は眉間を摘まんで溜息を零すが、新発意は身を乗り出して目を輝かせている。 次郎は途中からもう解っていたらしく苦笑しつつも頷く。 こちらの様子を伺う石掬丸さえ口元を綻ばせていた。(この面々については、楠木党、多聞丸正行周辺の人々<小人閑居日記 2023.2.21.>参照)

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