『深川吉原つなぐ糸は紫』、その後半
2024-08-05


 浩吉は拳で涙を拭い、無理に笑みをつくって言った。 「これでもう、思い残すことはありません」 そして、この店の支払いをする持ち合わせはないが、奉公している店には給金の預かりがあるので、迷惑だがあとで取りに行ってもらえないか、と。 小糸は、それまでと異なる強い口調で言った。 「お待ちください」 あなたが義侠心から小さい子供を救おうとなさったことは間違いではなかった。 まっとうすぎるくらいまっとうなことをなさっただけだ。 その尊いお気持は裏切られてしまったが、ご自分が死ぬことはなりません。 さらに続けて、「あたしはしばらくここを離れますが、必ず戻ってまいります。どうか、小糸を信じてそれまでおまちください」

 一刻(いっとき)が過ぎ、やがて二刻になろうかという頃、小糸が座敷に戻ってきた。 そして言った。 あなたは、今日の朝と夕、二度にわたって富岡八幡宮にお参りをなさったという。 善行をなさったのに難儀な目に遭っているのを、深川の八幡様がお見過ごしになるはずがない。 あらためて、お参りをして、「八幡みくじ」を引くと、「失物 近し」とあった。 そこで本殿の周りを捜して、三まわり目に木の根元に、細長いものが見えた。 しゃがんで、よく見ると胴巻、中になんと三十二両の金が入っていた。 ああ、ありがたや、八幡様が取り返してくれたのだと、もういちど手を合わせ、急いで戻ってきた、と。

 そして、小糸は、浩吉にまだ間に合うから、急いでお店に戻りなさい、という。 帰り道の途中で落としてしまい、足を棒にして捜したら、神様の御加護でようよう見つけることができましたということにすれば、許してもらえるから、と。

 翌朝、小糸がお六と暮している仲町の家に、浩吉を伴って薬種問屋の主人が訪ねてきた。 昨夜は、手前の奉公人が大変なご迷惑をおかけして、あなたを巻き込んでしまったことを深くお詫びする。 大切な奉公人を失わなくて済んだのは、あなたのおかげと、厚くお礼を申し上げる。 浩吉を問い詰めて、すぐに、あなたがどうにかして三十二両の金を工面してくださったことがわかった。 「いえ、深川の八幡様が…」 浩吉は動転して気がつかなかったようだが、仲町から富岡八幡宮へ行って戻るのに、二刻はあまりにもかかりすぎている、工面するのに手間がかかったに相違ありますまい。 懐から袱紗に包んだ金を取り出し、お返しするのでお納めくださいと言った。 小糸も、すべてはお見通しなのだと悟り、素直に受け取ることにした。 だが、三十五両もの金が入っていた。 そのようなことはないと思いますが、万一、高利の金を借りたというようなことなら、その利息に。 そうでなかったら、お立て替えくださった料理茶屋への支払いにお充てください。 小糸は考えていたようだったが、素直に受け取るようにしたらしく、頭を下げて、「お心遣い、ありがとうございます」と言った。

 薬種問屋の主従二人が帰ると、小糸は身なりを整え、深川から舟と駕籠を乗り継いで、吉原に向かった。 大門の前で駕籠を降り、吉原会所で女が入るときの通行用の切手を出してもらい、仲の町の大通りを京町まで歩き、一丁目の角を曲がって妓楼の俵屋に向かった。

 小糸は、内所に上げられると、楼主の小三郎に懐から袱紗に包んだ金を出し、押しやった。 「ありがたいことに、このお金は不要になりました」 「それはよかった」 俵屋が金をあらため、「少し多いが」 「利子ということで」 俵屋は笑いながら、「一晩で一割も利を乗せる賭場の高利貸でもあるまいし、そんな金を受け取るいわれはありません」

 実は、前の晩、小糸は料理茶屋を出ると、すぐ吉原に向かったのだ。 舟と駕籠を急がせて吉原に行き、俵屋で会った小三郎に事情を話した。 来年の三月には深川の年季が明けるので、四月からはお勤めができます。 前金としてぜひ三十二両をお貸し与えくださいと頼んだ、人ひとりの命を救うと思って、と。 俵屋は、その小糸の心意気に感じ入り、証文もいっさい取ることなしに三十二両を用立てたのだ。


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