終の棲家<等々力短信 第1184号 2024(令和6).10.25.>10/21発信
2024-10-21


 零細な町工場をやってきた父に、「将来どうなるかわからないから、米櫃(こめびつ)と自分の住む家だけは自分で確保しろ」と、いつも言われていた。 私は1969(昭和44)年10月に結婚することになっていて、住むところを探していた。 麻布の広尾に東京建物がマンションを建てる広告を見た。 ブランドに弱く、後に自費出版の原稿を、臆面もなく岩波書店の担当部門に持ち込んだほどだから、まず広尾と東京建物が気に入った。 聖心女子大学に面した北側の一番狭い部屋が3百万円台で、預金とローンで何とかなりそうだった。 銀行に4年半ほど勤め、前年家業のガラス工場に入ったところだったが、家には一銭も入れたことがなかったので、半分余の預金はあったのだ。

 広尾に6年半住んで、子供が生まれた。 手狭になったので、三井不動産にいた学生時代の友人を煩わせ、1976(昭和44)年、等々力のやや広い三井のパークホームズに越した。 広尾が意外に高く売れたので、ローンはさほど多くならなかった。 ヤドカリが、少し大きな貝殻に移るのと同じである。 等々力に20年住んで、また三井の友人に頼んで、1996(平成8)年、今いる奥沢の多少広い、4階建て、23戸のこじんまりとしたパークハイムに、ローン無しで移ることができた。 わが家は2階だが、坂道に建っているので、門を入るとまっすぐ部屋だし、専用庭もあって、洗濯好きの家内が毎日喜び、毎年入谷の朝顔市で求める朝顔を数えたりして楽しんできた。

 ずっと何でもなかったその坂が、駅からの帰りがけにさしかかると、黒井千次さんの『老いの深み』ではないが、坂だということを感じるようになった。 2、3年前に、マンションの管理組合が、階段に手すりをつけた。 当時は、なくてもいいぐらいに思っていたのだが、このところ、ゴミを出しに階段を下りる時など、手すりが有難いと思えるようになった。 この半年ほどの大規模修繕工事で、きれいにもなった。

 8月、三井不動産レジデンシャルが、吉永小百合で「お一人おひとりの豊かなくらしを」「これからも あなたにしか 紡げない人生を」と、シニアサービスレジデンス、パークウェルステイトという全面広告を新聞に出した。 価格も見ていないが、手を出せるような代物でないに違いない。 そこで考えたのは、わが家を筆頭に住民の高齢化が目立つ今いるマンションを、手すり工事の成功を拡張して、バリアフリー化、ウェルステイト化できないか、ということだ。 経費も合意形成も、至難なので、夢物語かもしれない。

 白金の老朽化した7階建て84戸のマンションが、23階建て96戸のタワーマンションに建て替えを実現した例がある。 所有者の5分の4(80%)の法定を上回る約96%が賛成し、3年8カ月の工事期間を経て23年9月に完成した。

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