原武史さんが『拝謁記』の「読みどころ」としたあたりを読んでみよう。
「読みどころ」(1)(2)(3)。 昭和天皇は新憲法の「象徴」をどうとらえていたのか。 田島道治に、こう話す、「私は憲法上の象徴として、道義上の模範たる様、修養を積んで居るつもりだが、まだたらぬ故、此上つとめたく、(中略)抽象的な道徳哲学、宗教の問題で間接に修養したいと思ふ故、或は儒教哲学、或はカント哲学等の道徳的哲学の話をきいて益(ますます)修養したく思ふ」(1950(昭和25)年9月4日) 再軍備が問題になった頃、警察でも軍でも中心になる人物が必要だ、米国は大統領が元首で首相でもあり司令官だが、日本ではどうなるかと田島が尋ねると、天皇は「それは元首象徴だらうネー」と。(1951(昭和26)年2月15日) 「私は象徴として自分個人のいやな事は進んでやるやうに心懸けてる。又スキなやりたい事は一応やめる様に心掛けてる」(同年5月16日)
原武史さんは、道徳的修養を重視する一番目の発言からは、象徴を儒教的な「天子」と同一視しており、二番目のやりとりからは、大元帥と元首と象徴の区別ができていなかったとし、三番目の発言は『論語』雍也第六の「仁」、東宮御学問所での杉浦重剛の倫理の教えの影響があると指摘する。 つまりどの発言も、日本国憲法の第一条を正しく理解しているとは思えないとするのだ。
天皇は「政治外交に関係せぬこと」を規定した新憲法に満足していたわけでは決してなく、「憲法の正文で政治外交に関係せぬことは文理上そうだが、GS (GHQ民政局)など厳格にそう考へてる様だが、あれはもう少しゆとりを持つ様にしたい」(1949(昭和24)年10月31日)と話し、田島は「陛下は憲法上厳格に申せば、政治外交に御関係なれば憲法違犯となります」(同年11月1日)と諫めている。
「読みどころ」(4)(5)(7)。 原武史さんは、天皇は「象徴」などの抽象的概念より、具体的体験を重視したと、指摘する。 「従来政治、軍事中心であったのを、今度は文化中心で、学問芸術の方面、又社会事業といふやうな事を一層よくして、国民との接触を謀らねばならんと思ふ」(1951(昭和26)年1月24日) 天皇が重視したのは、戦前からずっと続けてきた行幸だった。 共産主義には強い警戒感があったが、ソ連と接する北海道への巡幸が戦後巡幸の最後まで残ったことにつき、「北海道が一つ残されたといふ事と、行けば共産化に対する防御になるといふ点で行きたいと思ってる」(1952(昭和27)年3月2日) 巡幸によって戦前と同様、道内各地に「君民一体」の政治空間がつくられ、「国体」が可視化される。 そうすれば、共産主義の拡大を防ぐことができる。 即物的で手間のかかる手段だが、天皇は自らの体験からこれが最も有効な手段と考えていたようだ、とする。
(私はこれを読んで、昭和天皇が小泉信三さんを宮内庁長官に望んだのは、共産主義に対する強い警戒感があったので、小泉さんが反マルキストだった為なのではないか、と思った。)
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