福沢諭吉が「分権論」を著したのは1876(明治9)年、佐賀の乱(1874)、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱(1876)、西南戦争(1877)と、士族の反乱の時期だった。 福沢は、トクヴィルの分権論を応用することで、この状況に対応することを考え、士族を転じて地方自治を担う市民へと発想転換した。 福沢は本気で、政治的意図を狙い、明治時代の道筋を示そうとした。
「徳川政府の初めより嘉永年間に至るまで、国事に関する者は必ず士族以上の人種に限り、農工商の三民はただその指揮を仰ぎて僅かにその身体を養うに過ぎず」 「概してこれを云えば士族の生は国事、政治の中にありて存し、四十万の家に眠食する二百万の人民は、男女老少の別なく一人として政談の人にあらざるなし」
アメリカでは、国民が「ポリティカル・アイデアズ」を議論する。 レーガンの保守、オバマのリベラル、トランプと、そうしたある種の議論が、政治を動かす。
福沢の「士族の三類型」。 (1)新政府に地位を占める者(官僚)、(2)官を求めて官を得ざる者(不満、反発)。 その二つが、改新の党。 (3)士族固有の気力を持続してその形を変ぜざる者(「往々有力なる人物ありて、その品行賤しからず」と、同情的)→守旧の党。
「士族の不満」。 維新によって利禄を喪失、他に活計の方法なし。 士族の面目の喪失。 郵便の便利と著書、新聞紙の出版→田舎の士族が東京の事情を知ることが速くなり、何かせねばと考える。(これは、メディア論。グーテンベルクの活版印刷の発明以後、多くの人が情報を使えるようになった。)
「分権論」で、福沢は「国権の区別」をした。 政権(government): 法律の制定、軍事、租税、外交、戦争、貨幣。統一国家がやらねばならぬこと。 治権(administration): 国内各地でその地方に居住する人民の幸福を図る、警察、道路、橋梁、堤防、学校、社寺、遊園、衛生。
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