朝ドラの『あんぱん』(中園ミホ脚本)だが、梯久美子さんの『やなせたかしの生涯』を読むと、嵩の部分はかなり実際そのままに描いているが、のぶ(今田美桜)については柳瀬嵩夫人の暢(のぶ)の経歴とはだいぶ違っていることがわかる。
柳瀬嵩は、大正8(1919)年2月6日、高知県香美(かみ)郡在所(ざいしょ)村朴(ほお)ノ木(現・香美郡香北町朴ノ木)に、父・清、母・登喜子の長男として生まれた。 在所という地名は、近くの御在所山からきていて、古くから霊山とされたこの山には、壇ノ浦の戦に敗れた平家一門が、幼い安徳天皇を護って隠れ住んだという伝説がある。 柳瀬家は江戸時代からの庄屋で、あたりでも有数の旧家だったが、父の清が生まれたころには、かつての豊かさは失われていた。 清は次男で、姉、兄の寛、弟、三人の妹がいた。 寛も清も学校の成績がよく、ふたりとも名門の高知県立第一中学校(現・県立高知追手前高校)に進んだ。 その後、寛は京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)で、清は東亜同文書院で学んだ。 東亜同文書院は、中国の上海にあった日本の高等教育機関で、私立の学校だったが、広くアジアで活躍する人材を育成するという目的のもと、国も出資していた。
母・登喜子も、同じ在所村の永野という集落の谷内家、豪農の大地主、豊かな家の出身だった。 三姉妹の真ん中、農作業の手伝いなどは一切せず、ぜいたくに暮らし、三人とも高知市内の高等女学校に進んでいる。 登喜子は、高知県立高知第一高等女学校(現・県立高知丸の内高校)在学中、同じ香美郡の豪商と結婚したが、短い結婚生活ののちに離別し、谷内家に戻っていた。 嵩の父と母が結婚したのは、大正7(1918)年のことで、隣同士の集落に住む、上海帰りのモダンボーイと華やかな地主の娘との結婚は、自然なことだったのだろうと思われる。 文化の面でも地元の中心的な存在だった谷内家には、中国関係の書があり、清はそれを見るために出入りしていて登喜子と知り合ったのではないかという人もいる。
清は、大正5(1916)年に東亜同文書院を卒業して日本郵船の上海支店に二年間勤務したあと、東京の講談社に移って雑誌『雄辯(ゆうべん)』の編集をしていた。 だから嵩が誕生したのは、在所村朴ノ木だったが、一家は東京府北豊島郡滝野川町(現・北区滝野川)に暮らしていた。 父・清はさらに、大正10(1921)年4月、招かれて朝日新聞の記者となる。 東亜同文書院はジャーナリストを多く輩出した学校だった。 中国語が堪能だったため、「支那部」に配属された。 この年6月に弟の千尋が生まれている。 翌大正11(1922)年10月、清は広東特派員を命じられ、単身で任地に赴き、母と嵩、千尋の三人は、在所村の母の実家で暮らすことになった。 清が赴任したころの中国は、孫文の国民党が共産党との連携を模索し、国共合作に向けて情勢が大きく動いていた時期だった。 しかし清は、赴任から一年半後の大正13(1924)年5月16日、急病で死去する、31歳の若さだった。
セコメントをする