上司にも同僚にも恵まれ、和気あいあいとした中で誌面を作る『月刊高知』での日々は楽しかった。 だが、仕事の面白さを感じるほどに、中断された夢がよみがえってくる。 嵩の中で、もういちど東京でデザインの仕事をしながら漫画家を目指したい気持がふくらんでいった。 大切な二十代の五年間を戦争で奪われてしまったのだ。 東京でやっていける実力があるのかわからず、生活をしていけるのかも不安だった。
そんなとき、暢が上京すると言い出した。 以前からの知り合いが高知県選出の代議士になり、速記の技術を持つ暢が、東京で秘書をしてほしいと頼まれたという。 嵩が上京したいと思っていることを知っていた暢は、「先に行って待ってるわ」と言って、さっさと上京してしまった。
暢に遅れること半年、嵩も上京の決意をする。 暢が待ってくれていることはもちろん、もうひとつ、気持に区切りをつけたのは、昭和21(1946)年12月21日午前4時に起きた南海大地震だった。 しばらく寝て、後免町から徒歩で新聞社に向った嵩が、ようやく社にたどりつくと嵩以外はみんな出社していて、すでに第一報が出ていた。 自分はジャーナリストに不適格であると悟ったのだ。
昭和22(1947)年6月、嵩は上京、とりあえず東京田邊製薬時代の仲間が新橋で始めたデザイン会社を手伝う。 住まいは見つけることができず、暢が東急東横線の大倉山駅の近くで間借りしている部屋に、転がり込む。 暢の友人夫妻の家で、子供がふたりいた。 3歳の男の子と、生れたばかりの女の子である。 下の女の子は両親と一緒の部屋で、上の男の子は子供部屋で寝ていた。 暢は、この男の子と同じ部屋で暮らしていた。 男の子の世話をするかわりに下宿代は無料だった。 嵩の財産は、軍隊時代の飯盒ひとつ。 暢は、例の紺のジャンパーの着たきり雀で、嵩が持ってきた背広とコートを作りかえて着せると涙ぐんでよろこんだ。
お金もなく、将来のこともわからず、夜は隣に三歳児の寝息を聞きながら眠るコブつきの同棲生活。 だが、ふたりでいるというそれだけで心は満たされた。 暢は言った。 「とても幸せよ。でも、いまがいちばん幸福だったらいやだなあ」 「もっと幸福になるさ」 嵩はそう答えた。
この年、日本橋三越で、戦後第一回の日本広告展が開催された。 以下、三越の包装紙とショッピングバッグ<小人閑居日記 2025.6.10.>へ戻って、続く。
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