グルー駐日米大使、奇襲を見抜き、首脳会談に期待
2025-08-26


 朝日新聞の断続的な企画物「百年 未来への歴史」は、8月17日から「米国という振り子」が始まり、その〈1〉の最初の見出しは、「日本の奇襲 見抜いていた米大使」「幻に終わった「ルーズベルト・近衛会談」」だった(ワシントン=中井大助記者)。 1932(昭和7)年から開戦までの間、駐日米大使だったジョセフ・グルー。 日本による攻撃の可能性を事前に指摘し、回避しようとしていた。 「米国と決裂した場合、日本が真珠湾の奇襲を計画しているという趣旨のうわさが広まっている」(1941(昭和16)年1月27日の日記) 「米日関係が次第に劣化し、最終的に戦争に至ることがもう一つの可能性かもしれない」(1941年5月27日の電報) グルー大使の、日本政府関係者とのやり取りや、米国務省へ送った電報の内容などを詳細に記した日記を始めとする関連文書は、母校のハーバード大学で保管されている。

 開戦直前まで、米政府では「日本は攻撃をしない」という考え方が主流だった。 グルーは違う立場を取った。 11月3日の電報では「日本が外国の圧力に屈するより、国家としての自殺の危険を冒してまで、決死の行動に出る可能性が高い」と訴えた。 日記には「日本の論理は、西洋の基準でははかれない。我々の経済的圧力が、日本を戦争に追いやらないという信念を基に政策を立てるのは危険だ」と記した。

 だが、聞き入れられなかった。 グルーは日記で「まるで夜中に、池に小石を投げ込んでいるようだ。消えてしまい、多くの場合は波すら見えない」と嘆いている。

 1941年秋、日本側は近衛文麿首相と米国のフランクリン・ルーズベルト大統領の会談によって対立を解消することに期待をかけた。 グルーも後押しし、在日米大使館のスタッフも実現に奔走した。 しかし、米国側は冷たかった。 コーデル・ハル国務長官は回顧録で「グルーの日本への理解は尊敬に値したが、ワシントンの我々のように世界全体の状況を推測することはできなかった」としている。 ハル自身、英仏がナチスドイツに宥和したミュンヘン会談の再来になることを懸念した。

 近衛内閣は1941年10月に総辞職し、その後発足した東条英機内閣の下で真珠湾攻撃が行われる。 グルーは日本に半年間留め置かれ、その間に「なぜ、日米が開戦に至ったのか」の最終報告を書き上げた。 1942年8月、米国へ向かう船で書いたルーズベルト宛ての手紙では、将来の歴史家もこの報告書を活用するであろうと期待している。 また、両国の関係を改善するためには「ドラマチックな行動が必要だった」とし、近衛との会談がそれになり得たと述べている。

 しかし、手紙は送られず、最終報告書が日の目を見ることはなかった。 帰国したグルーはワシントンでハルに報告書を渡す。 だが、グルーの秘書官として待機していたロバート・フィアリーは、ドアの向こうからハルが声を荒らげる様子を聞いていた。 ハルはグルーに「報告書を廃棄するか、公表して米国民の判断に委ねるか、いずれかを選ぶよう」迫り、戦中のまとまりを重視したグルーは前者を選んだ。 戦後も日米関係に携わり、米統治下の沖縄民政官も務めたフィアリーは、グルーがハルや国務省と決裂するより、日米関係に寄与することを選んだ可能性があるとみた。 実際、グルーは戦中も国務省で仕事をし、日本の降伏や戦後の天皇制維持に関わった。

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