私は昭和16年に生まれて、品川区の中延で、昭和20年5月24日未明、米軍側発表で525機というB29が来襲、渋谷、芝、荏原、目黒、大森、蒲田の各区が焼け野原になった大空襲に遭遇した。 この空襲の時、父は4歳の私をおぶい、8歳の兄の手を引き、母や祖母といっしょに戸越銀座と反対の馬込方向に逃げた。 途中で母は「もう、ここで置いていって下さい」と言ったという。 戸越、五反田方向へ避難した人の多くは焼け死んだそうだ。 「大ドブ」と呼んでいた幅2メートル位のドブ川から立会川に降りて、水を頭からかぶりながら一夜を過ごした。 焼けたと思った家は残っていた。 玄関の上がりがまちに私を降し、畳につもった灰の掃除や後片付けに数時間。 「紘二は?」と気づいてさがすと、玄関に降した時のままの格好で、「ボーッ」としていたという。 以来、ずっと「ボーッ」としたまま80年が過ぎた。
また8、9歳ぐらいの時、中延の家のそばの第二京浜国道を渡ろうとして飛び出し、進駐軍のジープに轢かれそうになった。 GIが何か、怒鳴っていたが、英語だから分からなかった。 ジープの技術力、ブレーキの性能が良かったので、助かったのだろう。
そんな体験をしていたけれど、アメリカに恨みのような感情を抱いたことはない。 ラジオや映画や音楽で、アメリカ文化にどっぷりつかっていったからだ。
朝日新聞8月22日の社説は、「戦後80年と日米 学んだ理念手放さず進む」で、「百年 未来への歴史」「米国という振り子」をまとめるような内容だった。
「驚き、憧れ、追った」。 制度的変更に増して日本の米国受容に大きな役割を果たしたのが、米国の大衆文化だった。 映画に音楽、漫画、戦時にはご法度だった米国文化がなだれ込み、テレビドラマは受像機の普及で各家庭に入り込む。 米国の豊かな暮らしぶりは衝撃的で、派手で大きな車は羨望の的になった。 追いつけ追い越せの始まりである。
「自由や民主に共感」。 米国への親近感が総じて高いままだったのは、米国の掲げる自由と民主主義の理念に戦後の日本人の多くが共感したからだろう。 米国は、日本でも反対運動が高揚したベトナム戦争やイラク戦争のような横暴さと、開かれた社会と大衆文化の魅力とが常にセットの国だった。 ところが、ここに来て米国は肝心の理念を次々に投げ捨てている。 トランプ大統領の専制君主然とした言動は、既に枚挙にいとまがない。 金科玉条にしてきた合衆国憲法はお払い箱か、法治でなく人治を許すとは何事か、移民の国が移民を敵視してどうするのか、大学を締め上げるとはこれがあの米国なのか――。
「変わらぬ原点と価値」。 日本は核廃絶をめざしている。 同時に米国の核の傘のもとにあり、政府が米国に廃棄を直接要求することはなかった。 一見両立しがたいものを二つながらに保ってきたことは、唯一の戦争被爆国にして当の米国に頼ってきた戦後日本をよく映している。 世界情勢は先が見えない。 戦争放棄の誓いも核廃絶の目標も見失うことなく、しかしその貫徹や実現には苦難と時間が伴うと腹をくくる。 広島県の湯崎英彦知事がサーロー節子氏の言葉を引いて演説したように、旗印を手放さず、「這(は)い進む」。 それがこの80年で培った、そしてこの混迷の時に新たにすべき、日本の覚悟ではないか。 公民権運動はじめ米国に大いに学んだことでもある。
80年前、米国は日本を変えようとし、理想を託した。 米国が変わろうとも、その原点と価値は変わることがない。
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