江戸の学び方「会読」、遊びの精神・異論尊重
2025-09-12


 4月に亡くなった、森に落葉樹を植え、養分を海に循環させて環境保全を行う運動をした畠山重篤さんのことを書こうと思って、新聞の切り抜きを「糠味噌」のようにかき回していたら、有田哲文記者の「日曜に想う」、「江戸の「会読」育まれた学び」(2024年12月29日朝日新聞)が出て来た。

 江戸前期の儒者、伊藤仁斎(1627〜1705)は、京都の町人の家に生まれ、若い頃から儒学に打ち込んだ。 家業を全くかえりみない姿勢は、周囲の批判を浴びる。 人間嫌いとなり、引きこもりがちになった。 しかしあるとき、人との交わりに学問の活路を見いだす。 それが「会読(かいどく)」で、友人たちと共に書経や易経などを読んだ。 一人が書物の意味を講じ、他の者が疑問点をただし、討論に至る。 講じる者が交代し、会読は続く。 この学習法は、仁斎の塾を超え、各地の私塾や藩校へと広がっていった。

 江戸時代は武士と町人とを問わず、多くの人が儒学に専心した。 しかしその動機は、同じ文化圏である中国や朝鮮とは全く違っていた。 日本は、官僚登用のために儒学の知識を問う「科挙」を採り入れなかった。 それは学問が立身出世に直結しないことを意味した。 何もせずに身分制社会の中で草木のように朽ち果ててしまうのを拒否し、生きた証しを残したいと儒学を究めた人たちがいた。 彼らに教えを請い、自己修養をめざした多くの人たちがいた。 その学び方が「会読」だった。(前田勉愛知教育大学名誉教授『江戸の読書会』平凡社ライブラリー)

 「科挙」受験のために一人で学ぶのとは違う世界が生まれた。 一つの特徴が「遊び」の要素で、誰が書物を深く読めるかを競い合った。 身分上下に関係なく、実利にもつながらないからこそ、熱くなれた。 もう一つの特徴は、異なる意見に出合い、そこから学ぼうとする姿勢だ。 加賀藩の藩校・明倫堂は学生に、明白な結論に至るため、虚心に討論しようと求め、みだりに自分の意見を正しいとし、他人の意見を間違いとする心を持つのは見苦しいとした。

 共同研究の場でもある「会読」は、蘭学、国学、そして明治の初めには自由民権運動の学習結社にも引き継がれた。 しかし明治期は「会読」がすたれていく時代でもあった。 高級官僚を養成する東大を頂点として、学問が立身出世と直結したからだ。

 前田さんは、「列強に追いつくためには必要だったのでしょう。しかし半面では、日本の学問が『科挙化』したともいえる。真剣に議論を戦わせながらも、お互いを認め合う『知の共同体』は忘れ去られていきました」と、言ったそうだ。

 有田哲文記者は、おそらく「科挙化」は、いまも進行中なのだろうとし、既存の社会の在り方を絶対視するなら、学問の可能性は狭められる。 世襲にしばられた江戸の身分制社会のなか、そこから抜け出すための装置であった「会読」。 育まれた遊びの精神や異論の尊重には、いまも新鮮な響きがある、とした。

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