Eテレ「100分de名著」『福翁自伝』第4回「事業の達人に学べ」のつづき。
福沢は明治2(1869)年、出版社を立ち上げた。 よほど金ができたから金をかき集めて、まず、大きな紙問屋で土佐半紙を千両買い、新銭座の土蔵一杯に積み込んだ。 それから書林に話して、版摺の職人を借り、積んだ紙を見せて、版木師も製本仕立師も、だんだん大勢の職人を集めて、仕事のやり方を習得し、これまで書林のしていたことを全て直轄にして、書林にはただ出版物の売りさばきをしてもらい手数料を払うことにした。 借金をしないで、この事業を始めた。 借金をすると、不自由になるので、独立を侵されたくない。 永松茂さんは、目の前の話を一つずつ進めていく、遠くの目標でなく、と言った。
福沢は明治15(1882)年49歳で、日刊紙『時事新報』を創刊した。 自由民権運動の真っただ中にあって、独立不羈、どの党派にも依らず、政治、学問、経済のすべてを扱った。 初めて気象情報、漫画、職業別の歩き方なども載せ、義捐金募集も行なった。 国民のレベルを上げていこうと、メディアを事業として立ち上げて、人的な交流を活性化させて、世の中を前へ進めて行く。
福沢は、理性の利く世界で仕事をした、政治のごちゃごちゃは合っていなかったのかもしれない。 「理」は大事、合理的、本当の理に合っていることで、コスパや効率ではない。
中津市歴史博物館学芸員の三谷紘平さんは、『学問のすゝめ』のもとになった「県内士民江告諭文」の実物を紹介した。 明治30年1月17日付、姪の夫である小田部菊市宛書簡では、名を伏せて耶馬渓の競秀峰の買収(曾木山之買集)を指示している。 現在のナショナルトラスト運動の前身である。
福沢は、心身の健康を大事にした。 子供や孫の教育には、「まず獣身を成して後に人心を養う」という主義だった。 『福翁自伝』の最後に、「人は老しても無病なるかぎりはただ安閑としてはいられず、わたしもいまのとおりに健全なる間は身にかなうだけの力を尽くすつもりです。」とある。 「突出した天才でなくても、これだけバランスが取れていると、時代を動かす大人物になるというのは、ある意味ヒントになる、勇気になる」、と斎藤孝さんは結んだ。
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