秋田實、東大での活動と、雑誌への関わり
2026-03-02


 秋田實は、東京帝国大学(以下、東大と記す)入学後、すぐに新人会に入会した。 その昭和3(1928)年ごろには、新人会は「望めば誰でも入会できる団体」ではなくなっていた。 マルクス主義の学習では理論水準が高まっていて、非合法団体に近く、学内の研究だけでなく学外の社会運動への参加が要請されていた。 秋田と丹羽道雄が入学後、すぐに新人会に迎えられたのは、大阪高校でのキャリアがあったからだ。 藤沢桓夫は、その二年前に入会していたが、まだ入会資格がきびしく問われなかったのかもしれない。 藤沢が最初の研究会に出た時、その講師(チューター)が一年生(亀井勝一郎)だったのに驚いたという。

 丹羽は学内の幹事会で活動し、秋田は幹事会の指示で日本金属労働組合の書記として出向している。 新人会は、昭和3(1928)年の「三・一五事件」で大学から解散させられて非合法になったが、活動は続けていた。 それが「豊島園事件」(9月28日)で会員が検挙されたために大学にバレてしまい、幹事長の丹羽は退学処分を受けた。 東大が思想事件で学生を退学処分にした第一号がこの丹羽道雄だという。 秋田が手伝っていた日本金属労働組合も、非合法の共産党指導下にある非合法の組合で、おおっぴらにできるものではなかった。 秋田は、この仕事だけではなく、紡績工場で雑役工として働いている。

 昭和5(1930)年「五月二十日事件」(「戦旗社事件」)で、雑誌「戦旗」の責任者壷井繁治が検挙された後、秋田實は「戦旗」の編集にかかわっている。 戦旗社は『太陽のない街』、『蟹工船』というプロレタリア文学のベストセラーを出していた。 秋田は「戦旗」昭和5年12月号に、森一の筆名(あるいは変名)で、「工場実話小説 首切り反対だ!」を書いている。 同じ年、プロレタリア文芸雑誌「集団」の10月号に「踏査図―ゼネストへ―」という小説を、林熊王の筆名で書いている。 翌昭和6(1931)年7月号の「集団」にも、林熊王の名で「網」を書いている。 いずれも、アジ・プロ小説である。

 「戦旗」の編集にかかわっていた昭和5、6年ごろ、秋田實は「犯罪科学」という雑誌の編集を手伝っている。 「戦旗」とは目的意識が違って、金を得るためであった。 雑誌のあちこちに「埋め草」の短い文章がある。 昭和6(1931)年9月号の「読心術」は「勝貞仁四郎」の署名で、フランス笑話だ。 秋田が高校時代から外国のユーモア雑誌で愛読し、暗記までしたというネタではないか。 「勝貞仁四郎」は、カツサダジンシロウでなく、カッテニシローだろう。 こうした筆名の付け方は秋田の得意とするところで、秋田實自体も、春野仲明(ハルノナガメ)、夏山茂、夏輪篤(ナツワアツシ)、秋田實、冬賀北蔵(フユガキタゾウ)、のうち一つが定着(?)したものであり、「歴史科学」(昭和9年6月号)にある「忠臣蔵零れ話一」の筆者は鷲屋通頼で、このワシャツライが秋田實であると実証する人がいたそうだ。

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