NHKの朝ドラ、連続テレビ小説『風、薫る』を見ている。 どうも、タイトルバックも描いている、歳時記のいう「南風が緑の草木を渡って、すがすがしく匂うように吹いて来るのを讃えた言葉で、薫風ともいう」にそぐわず、暗い展開になっている。 「原案」という、田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和(ちか)物語』(中公文庫)を読んで、気づいたことがある。 朝ドラは、大関和と鈴木雅をモデルに一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)をダブル・ヒロインとしたため、本では大関和の話なのを、二人の話に分けた部分が多々あり、そこに誤算があったのではないか、と思うのだ。
大関和は、幕末の安政5(1856)年、下野国の黒羽(くろばね)藩(現栃木県大田原市)の国家老、大関弾右衛門と母・哲の次女として生まれた。 縁戚の藩主大関増裕は蘭学を学び、洋式兵術に精通していたことから、幕府に重用され、初代の陸軍奉行、海軍奉行を歴任した。 戊辰戦争に際し、増裕は朝廷側に付く決断をし、地勢上長く交誼のある会津討伐の先頭に立たねばならなくなり、自らの身を供して、臣節を全うすると、弾右衛門に打ち明け、殉死は止めて、翌日家老に類が及ばぬよう、城外で自害した。
明治9(1876)年、弾右衛門は18歳になった和の縁談をまとめると、流行り病で50歳で亡くなる。 相手は40歳の黒羽の士族で大地主、先妻を亡くして子はないが、妾が何人もいて、子もあった。 和は三年間、義母に荒れ地での米作りを命じられ、その間六郎を産んだが、ついに離縁を決意して二人目を実家で産むと藩の上屋敷のあった東京神田五軒町の母・哲の家へ移る。 明治13年春、和は女の子・心(しん)を産む。
職を求めた和は、幕末長崎で唐通詞をし、維新後新政府の外交官となった鄭永寧家の女中になった。 和の仕事は次男で大蔵省に勤める鄭永慶夫妻の世話だった。 永慶は、和に英語を学ぶことを勧め、新橋の植村正度(まさのり)の英語塾を紹介してくれた。 和以外は全員男性でクリスチャンが多かった。 正度の兄は植村正久で、下谷御徒町の教会で牧師をしていた。 和は、正久と言葉を交わすうちに、その誠実な人柄を知り、信頼を置くようになる。 一夫一婦の教えを知り、キリスト教こそが自分を、そして女性たちを救う宗教だと信じて、正久が設立した一番町教会で洗礼を受けた。
明治16(1883)年7月、鹿鳴館が竣工。 その一年後、鄭永寧に言われ、鹿鳴館の慈善市に、和が手伝いに行く。 高木兼寛の有志共立東京病院(現慈恵医大病院)附属の看護学校を作るためだった。 大山捨松主催のそのバザーで、和は英語を話して、活躍した。 捨松に誘われた、和は鹿鳴館で通訳と英語教師として三年間務める。
矢嶋楫子の桜井看護学校で、和と鈴木雅が出会うのは、明治20年の事だ。
�セコメントをする