「ゆとりか、学力か」
2005-05-25


 NHKスペシャル『明治』の第1集は「ゆとりか、学力か」(4月10日放送)。  明治の人びとは教育によって国を立てるという理想に燃え、官も民も力を合わ せて、教育の普及と学校の建設に力を入れた。 明治5年「学制」が公布され、 近代的な教育の制度が始まった。 小学校の大半は地域の住民の資金で建てら れ、明治8年にはもう2万4千校、ほぼ現在に匹敵する数があったという。 番 組は明治6年長野県松本に創立された開智小学校(旧開智学校)に学び、後に文 部省の教育改革担当官僚に出世した沢柳政太郎(1865-1927さわやなぎまさた ろう)を舞台回しにして、話を進める。 下等小学校は男女共学、先生の講義を 聴く一斉授業、席順は試験の成績順、進級も試験に合格することが必要だった。  試験で求められるのは、子供の考えでなく、授業で教えられたことの正確な暗 誦で、学校は競争に迫られる能力選抜の場となった。

 よく出来た沢柳政太郎は、東京府立一中、東大予備門、東大文学部と進み、 明治21年文部省に入省、勉強次第で立身出世が可能になった能力主義社会は 到来したのだ。 明治29年、尋常小学校324万人、高等小学校54万人、中学 校4万人、高等学校4200人、帝国大学1833人というピラミッド構造。 教育 の現場に試験に受かることだけを目的とする風潮を生み、競争激化などの弊害 が生じた。 新進の文部官僚として初等教育の責任者となった沢柳は、そうし た風潮に歯止めをかけようと、明治33(1900)年、第三次小学校令で、授業時間 の短縮や、試験を廃止し普段の授業で成績をつけるなど、一人一人の子供の個 性を伸ばしていこうとする教育改革を断行する。 だが、その改革は、学力低 下という新たな問題を前に、後退を余儀なくされ、明治41(1908)年沢柳は退官 する。 沢柳は大正6(1917)年、児童の個性を大切にし、一人一人の関心を重 んじ、その工夫や努力を認める学校、受験の指導をしない成城小学校を創立す る。 それは「自由教育」と呼ばれ、一時は大きな影響を与えたが、戦争へと 進む時代に呑み込まれてしまう。

 戦後昭和21(1946)年の米国教育視察団報告書「試験第一主義を改める必要が ある。受験準備の教育は、形式的で紋切型になるものだ。教師と生徒を大勢順 応主義に陥らせ、批判的判断の自由を奪ってしまう。そして全体としての利益 よりも、狭い官僚主義社会の利益に迎合する当局者の操縦に容易に身を任せる 体質になる」

[歴史]

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