【2】明治18,9年から20年代前半まで:「新しい「家」の確立=体系的女性 論」。 福沢が明治18年『日本婦人論』『日本婦人論後編』『品行論』、明治19 年『男女交際論』『男女交際余論』、明治21年『日本男子論』をあいついで書 いたのは、封建的な「家」の解体がなかなか進まないことに加え、「士族風」の 封建的な家族の制度や風俗が一般(平民)にも広がることへの懸念があった。 福沢が何かにつけかかわっている中津の士族社会は、本質的には変容せず、精 神的にも金銭的にも旧主君である奥平家への依存から脱することができず、旧 藩士たちは旧体制下の「家」への帰属意識から離れることができない姿を見せ ていた(明治16年士族互助機関「天保義社」をめぐる紛議、明治20年前後の 中津市学校再興問題)。
この時期の一連の著作で福沢が説いたのは、社会を構成する単位としての新 しい「家」の確立と、女性であっても社会的役割を果たすことだった。 新し い「家」は(1)一夫一婦によって構成される、(2)対等な男女が愛・敬(尊敬)・恕(お 互いに許しあう)によって結びつく、(3)夫婦間でも各々の「私有」財産を有し、 各「家」ごと独立した活計を営む、ものだった。 女性の社会的役割について は、「男女共有寄合の国」「日本国民惣体持の国」「国の本は家に在り」と書き、 女性にそうした力を備えさせるための学習・交際の場を与えることを考えて、 著述活動や教育活動を行った。 明治10年代中ごろまで、幼稚舎の前身であ る和田塾に女子がいた記録がある。 明治19年留学中の息子一太郎・捨次郎 宛の書簡で娘たちのために女子留学費用の調査を依頼しているし、女学校設立 の構想を持ち、慶應構内で「ミスシスバンホーレット」の塾が明治22,3年に開 かれていた。 女性に交際の場を提供する女性だけの立食パーティーや、落語・ 義太夫などの余興のある会、音楽会も、自宅で開催した。
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