漱石と福沢、そのマクラ
2007-02-16


 まず1976(昭和51)年5月15日付、まだ広尾に住んでいたハガキ時代の「広 尾短信」44号をそっくり引用する。

 岩波の十六巻本の漱石全集に第十七巻の「索引」が出来た。 この全集は昭 和40年からの発行時に、一巻1,200円でそろえた。 サラリーマンになりた てのことで、自分の金で本らしい本を買った嬉しさは忘れられない。 第十七 巻は2,800円だから本の値段は二倍強なのに、初任給は当時21,000円だった のが現在は五倍位になっている。  「索引」で「広尾」を引いたら明治44年5月20日の林原耕三宛の書簡に「鈴 木の渋谷の宿所は下渋谷七四広尾橋下車祥雲寺墓地の横といふ所だよ」と鈴木 三重吉らしい人の消息を伝える文句が出てきた。 祥雲寺墓地の横とは今私の 食う寝る所住む所である。  「慶應」は講演を断る手紙を書いたという日記と、英語教師になれという話 を断わることにふれた小宮豊隆宛の手紙に登場するだけで、「福沢諭吉」にいた っては漱石全集十六巻に一度も現われない。         (引用終り)

 その時、私は漱石が福沢にまったくふれていないことに、ひどくがっかりし た。 漱石は、福沢が嫌いだったのだろうか、などと思った。 漱石がイギリ スに留学したのは、福沢が死ぬ一年前の1900(明治33)年のことだ。 漱石 が少年期か学生時代に、ベストセラーである福沢の著作を、まったく読んでい なかったとは考えられないからだった。

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