蒲生礼一さんの「脱欧入亜論」
2012-05-11


 『イスラーム』(岩波新書)で蒲生礼一さんの説く世界の歴史は、ここから異 論も出るであろう展開になっていく。 それが第二次世界大戦終戦から13年 の、1958(昭和33)年に書かれたことも考慮しなければならないが、深いイ スラーム研究と、イスラーム教徒への深い愛情から事を見てみると、一面の真 理に達していたという感じも、しなくはないと思うのである。 それは、その 後の日本が選択した道とは、別の道であった。

 「第一次世界大戦を経て、アジア、アフリカの諸民族の民族意識がだんだん 高まり、第一次世界大戦後西南アジアおよびアフリカにおける旧トルコ帝国の 植民地はその羈絆を脱しました。かつて、イスラーム世界の中心をなしてきた トルコから、その支配下にあるイスラーム諸民族を解放する仕事は意外にもヨ ーロッパ人キリスト教徒等によって行われましたが、実はこれらの諸民族にと っては、トルコ帝国の支配をヨーロッパ・キリスト教徒らの支配に置きかえた だけのことでした。すなわち、こうした仕事は、無論、イスラーム教徒らのた めに行われたものではなく、ヨーロッパ人自体の利益のために行われたもので あったことは言うまでもありません。第一次世界大戦はドイツ勢力の東方進出 を防止するためにイギリスを中心とする諸国がドイツならびにその同盟国トル コを攻撃した戦いでありました。西南アジア方面に出兵したイギリスはトルコ 帝国の支配下にあったイスラーム教徒等の、トルコからの離反を使嗾し、かつ 援助しました。「アラビアのローレンス」が活躍したのはこの頃のことでした。 ローレンスが一種の天才であったことは疑いをさしはさむ余地はありません。 しかし彼の活躍は結局イギリス帝国主義の手先となって一部のアラブ族を使嗾 し、反トルコ的勢力を盛り上らせ、トルコの戦力を蝕ませて、戦局を連合国側 に、有利に展開せしめたにすぎなかったと言えます。」

 「何れにせよ、古い形のヨーロッパ的帝国主義の時代は終り、アジア、アフ リカ方面の諸民族間の民族主義的傾向はいよいよ強化され、第二次世界大戦を 契機として、彼らは続々と独立しました。近代化を阻むものとして王朝制は 1952年まずエジプトにおいて崩壊し、1955年にはアジア、アフリカ諸民族に よるバンドン会議開催、1956年にはエジプトによるスエズ運河の国有化宣言、 エジプトはイギリス、フランス、イスラエルによる武力侵略を受けましたが、 目的を達成、1958年2月1日にはアラブ連合結成、同年7月14日にはイラク にクーデタが勃発して王朝制は崩れ去り、やがてイラクはアラブ連合に参加す ることになりました。イラクのクーデタと同時に英、米兵力のレバノン、ヨル ダン進駐が行われましたが、これが何を意味するものかは自ら明白であります。 歴史の大きな流れは武力を以て変えることはできないでしょう。」

 「わが国が、東洋の諸民族に比して一足さきに便乗したヨーロッパ的資本主 義によって、かれらにむかって搾取の手をのばそうとした時代は悪夢のように、 過ぎ去りました。今度の大戦でヨーロッパ的帝国主義に破れた私たちは東洋の 一民族として、アジア、アフリカに国を建てるイスラーム教徒たちとともに、 共通の悩みを排除し、共通の目的にむかって邁進しなければならない時が来た のです。アジアの民である私らは手をとりあって、共通の敵に立ちむかわねば なりません。共通の利害に立って団結し、もってヨーロッパの帝国主義に対抗 するために、我が日本にとって果たさなければならない義務がある筈です。相 互の生活水準をあげるために必要であれば、技術でも学問でも提供しなければ なりますまい。第二次世界大戦でも、日本はむしろ西洋側の一員としてアジア の諸民族を踏台にしようとしました。したがって、日本がしたことについては 厳重な批判が下されなければならないでしょうが、結果から見て、アジアの被 圧迫諸民族に一種の刺戟を与えたことは争うことのできない事実です。」

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