昭和30(1955)年創刊、60周年という『銀座百点』の表紙が1月号(通巻 722号)から、クラフト・エヴィング商會のデザインの、斬新なものになった。 クレヨンで描いたらしい題字の「銀座百点」のロゴタイプ(デザイン文字)が、 懐かしい、どこかで見覚えがある書体だ。 セントメリー靴店の字ではないか。 ネットを「セントメリー靴店」で検索したら、どうもその名の店はなくなって いるらしいが、私のブログが出て来たのには、驚いた。 『銀座百点』700号 「百点句会」「銀座俳句」<小人閑居日記 2013. 3. 8.>である。 そこに私は、 700号の宇野亜喜良さん「聞き書き佐野繁次郎」に、『銀座百点』の昔のロゴタ イプは佐野繁次郎が描いたもので、セントメリー靴店や化粧品のパピリオの字 も描いた人だとある、と書いていた。 1月号にその旨の記述はないが、おそ らく創刊当初のロゴタイプを使ったのではないだろうか。
1月号から、半藤一利さんの「わが銀座おぼろげ史」が始まった。 戦後、4 丁目の交差点(尾張町と言っていた)で白ヘルメットの進駐軍のMP(憲兵) が交通整理をしていたのは、私も憶えている。 半藤さんは、昭和25年1月 26日に大学1年生で銀座へ行き、その占領軍(と、半藤さんは書く)のMPが、 日本人のお巡りさんに代わっている、そのあざやかな手ぶり身ぶりに仰天した という。 50年ほど前、アメリカの雑誌に載ったという、そのお巡りさんのイ ラストを、半藤さんがデフォルメして冒頭に掲げている。 半藤さんが絵まで 描かれるとは、知らなかった。 銀座に行ったのは、末期ガンの病床にあった 父上が「アイスクリームを食べたい」と言い出したからだったという。 1月 のアイスクリームだが、さすが銀座にはあった。 三店目で、ようやく事情を 承知してくれた店で買い、向島の家に着いたら、だいぶ溶けていたが、父上は 実においしそうに食べた。 三日後、48歳で亡くなったという。
2月号では、北の富士勝昭さんと嵐山光三郎さんが「三度目の相撲人生」と いう対談をしている。 嵐山さんは私の友人と同級生だから、同学年だと知っ ていたが、北の富士さんも昭和17(1942)年3月生まれの同学年だそうだ。 嵐山さんの本名は「英昭」で、北の富士さんの「勝昭」とともに戦争中の子の 名前だという。 私の「紘二」は「八紘一宇」の「紘」だし、同級生には「捷 宣」「捷夫」「勝彦」「勝巳」などという名の人がいる。
「三度目の相撲人生」の人生とは、力士、親方、解説者で、横綱を張った人 で解説者になったのは、北の富士さんが初めてだそうだ。
嵐山…逸ノ城はモンゴルでも遊牧民の出身で、馬に乗ってたんだそうですね。 あの体じゃ馬もたまらないんじゃない?
北の富士…馬があいつを乗せてるんじゃなくて、あいつが馬を担いでいたの かも(笑)。
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