「「縄文時代」はつくられた幻想に過ぎない」
2016-10-14


 「弥生式土器ゆかりの地」の碑や、「弥生二丁目遺跡」を見て来たので、ぜひ これを書いておきたい。 8月30日朝日新聞朝刊オピニオン&フォーラム「異 議あり」にあった、山田康弘さん(49)の「「縄文時代」はつくられた幻想に 過ぎない」という意見である。 山田康弘さんは、1967年生れの先史学者、国 立歴史民俗博物館教授、専門は「縄文時代」を中心とした先史墓制論・社会論、 考古学と社会の関わりを研究しているという。

 『つくられた縄文時代』という著書もある、その主張はこうである。 「縄 文式文化」「弥生式文化」という言い方は、戦前からあった。 ただ、石器時代 の中に狩猟採集の文化と、米を栽培している文化があったということで、時代 のくくりは、弥生の一部を除いて石器時代だった。 戦後になって、アメリカ の教育使節団の勧告などで、これまでの神話にもとづく歴史教科書はダメだ、 新しい歴史観で教科書をつくれということになった。 当時最も科学的な歴史 観と考えられていた「発展段階説」に合わせて、狩猟採集段階の縄文式文化か ら農耕段階の弥生式文化へ発展したと書かれるようになった。 「縄文」「弥生」 の枠組みは、新しい日本の歴史をつくるために、ある意味で政治的な理由で導 入され、決められたのだ。

 ただ、まだ「縄文時代」「弥生時代」ではなかった。 変化が起きたのは1950 年代後半だ。 1947(昭和22)年に代表的な弥生遺跡である静岡県の登呂遺 跡の調査が始まり、広い水田や集落の跡が発見された。 弥生式文化の範囲も、 西日本だけでなく関東や東北まで広がっていたことがわかってきた。 その段 階で「弥生時代」という言葉が出てくる。 「縄文時代」から「弥生時代」を 経て「古墳時代」へという道筋で、日本の歴史が語られるようになる。

 なぜ「文化」から「時代」になったのか。 50年代は、戦後の日本が講和条 約を結び、国連に入るなど、国際社会の中で地歩を占めていった時期だ。 そ れと並行して、日本とは何か、日本人とは何かが強く意識されるようになった。  その中で、石器時代、青銅器時代、鉄器時代といった世界史共通の区分とは別 に、日本独自の時代区分が求められていたのだと思われる。  「弥生時代」は、登呂遺跡のように稲が実り、広々としたのどかな農村とい う、非常にポジティブなイメージとともに広まった。 戦後間もない頃の日本 人は、弥生に日本の原風景、ユートピアを見た。 その一方で、裏表の関係に ある縄文は、貧しい、遅れた時代ということにされてしまった。

 しかし70年代になると、縄文のイメージは大きく変わる。 貧しいどころ か、豊かな時代だったという見方が出てくる。 国土開発が盛んになり、大規 模な発掘調査が行われた。 縄文の遺跡からも籠や漆を塗った椀などが見つか り、縄文人が高い技術を持っていたことが明らかになった。 一方で、弥生時 代の遺跡からは武器がたくさん出てきて、争いの多い時代だったこともわかっ てきた。 「縄文は遅れていた」「弥生は平和」というイメージが崩れてきた。

 90年代になると、「縄文階層社会論」が盛んになる。 青森県の三内丸山遺 跡などが発掘され、これほど大型の遺跡がある以上、単なる平等社会ではなか ったはずだという見方が出てきた。

 実際の縄文の姿はどうか。 研究の最前線では、狩猟採集の時代という縄文 の枠組み自体が揺らいでいる。 豆の栽培など農耕に近いことをやっていたこ ともわかり、生業だけで縄文と弥生を分けるのは難しくなっている。  地域によっても大きく違う。 中国・四国地方などの縄文文化は、三内丸山 遺跡のような大規模な集落もなければ、人々が長期間定住していたわけでもな い。 同じ時期に様々な地域文化が併存している。


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