「全面講和論・中立論は成り立たない」
2016-12-24


 橋本五郎さんの講演、(2)平和論―全面講和論・中立論の矛盾。  時代背景は、1951(昭和26)年9月にサンフランシスコ平和条約が調印さ れたが、ソ連は反対、中国も欠席、調印したのは49か国だった。 すでに冷 戦が始まっていた。 日本国内でも、ソ連など社会主義国が参加しない片面講 和はかえって極東地域を緊張させるものだとする「全面講和論」が文化人・知 識人、労働組合を中心に広がった。 その先頭に立ったのが東大総長南原繁で あり、1949(昭和24)年秋には全米各地を遊説、全面講和論を唱えていた。  岩波の『世界』を中心に、丸山真男らも全面講和論だった。

 こうした中で小泉信三は、全面講和や非武装中立論が成り立ち得ない理由を、 新聞・雑誌で精力的に展開、『平和論』(1952(昭和27)年)にまとめた。 そ の先見性は、戦後の日本の歩みをみれば一目瞭然だろう、と橋本さんは言う。

 全面講和はなぜ成り立たないか。 「私は中立や全面講和が、それを真実平 和のためと信ずる人々によって唱えられた事実を決して否まない。けれども同 時に、実は平和より中立よりも、親ソ反米を目的とする宣伝が、平和を名とし て行われ、そうして心弱き一部の評論家が、それに同調しつつあることを知っ ている」

 「私は平和の名よりも、実を願う。名を喜んで、これを唱えるものに対して は、私はその表情を察しつつ、ただそれらの人々が一層論理的に思考すること を望まざるを得ない。」

 「私は当初から全面講和論、中立論に反対であった。反対と言うのは、それ ができても望まないということではない。出来ない相談だと思ったのである。」 「米ソの間で日本が中立の意思を表示したとする。それに構わず、交戦国一 国の軍隊が上陸しないまでも、軍艦が日本の港に入ったとする。中立国たる日 本は一定期間内にこれを退去させなければならぬ。退去を肯(がえ)んじなか ったときはどうするか。日本はそれを強制する力はない。それは中立義務の不 履行である。内実はどうでも、中立は守られなかったことになる。少なくとも 相手の交戦国は、これを中立違反とみるに躊躇せず、必要または適当と認める 処置を取るに躊躇せぬであろう。」

全面講和論者の責任論。 そこ(上記のこと)まで考えて、やっているのか。  言論人や学者は、自分の言ったことに責任を取れ(落し前をつけろ)。 「一つ 事を主張するものは、当然それから引かるべき帰結に対して責任を負うべきも のと思うものである。……全面講和でない講和には反対であるといい、しかも、 全面講和を可能ならしめる具体的の提案を示さぬとすれば、それは当然、占領 の継続を求める結果となり、当然この結果に対する責任を負わなければならぬ 筈である。」(「私の平和論について」) (つづく)

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