伝えたいことが伝わり、人を動かす文章
2018-01-21


 そこで都倉武之さんの論文「福沢諭吉における執筆名義の一考察―時事新報 論説執筆者認定論への批判」の構成だが、「はじめに」の後、 一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想 2 福沢による文 書代作の例 二 福沢著作の執筆名義 三 『時事新報』社説に関する自意識 「おわりに」 となっている。

 今日は「一 福沢による文書の代作 1 『福翁自伝』における回想」をみ てみたい。 それぞれに引用されている福沢の文章が面白いのだけれど、それ は論文で読んでもらうことにする。

 『福翁自伝』に出てくる文書の代作の逸話は、適塾時代の「遊女の贋手紙」、 長崎から大坂への転学の途中、無銭宿泊のために中津の商人鉄屋惣兵衛の名を 騙った船宿への贋手紙、戊辰戦争で捕えられた榎本釜次郎(武揚)の老母の代 りに書いた助命嘆願書である。 これらの逸話は、福沢が贋手紙の内容のみな らず、その内容を記す文体、表記、書体、そして届け方などを総合的に偽ると いう多面的な考慮のもとに実行されたことを語っているのだ。 求める結果を 導き出す文章を作り上げるために、文章の書き手と読み手を意識し、その文章 がいかに読まれるかということに配慮を巡らせ、種々の工夫をし、実際に求め る結果を導いている。

 福沢の文章表現の柔軟性について、適塾時代に赤穂義士は義士か不義士か議 論した一節が引用されている。 そこからは、物事を両面から相対的に見据え た福沢の視座に加え、自分の説とは別次元の問題として、議論の技術が必要で あることを認識し、それを適塾時代に磨いたことが語られている。 明治5年 に東海道を歩いて、行き違う人々に様々な言葉遣いや態度で話しかけ、相手の 反応が変わる様子を観察する逸話がある。 福沢は『旧藩情』(明治10年)で 身分間の言葉の差異を詳細に考察しているように、語彙や語感の違いへの高い 関心を持ち、それを巧妙に使い分ける素地を持っていたといえよう。 年少者 向けの作文教科書『文字之教』(明治6年)の末尾には、文章の表現技術を磨 く必要を説く興味深い下りがある。

 福沢は議論の中身と外形は一体ではなく、難解なことも平易に、無意味なこ ともさも重要なこととして表現しうるといい、文章の技術(art)の重要性を自 覚していた。 中身を読者に伝えることに傾注し、「伝える」という実用の目的 に徹して、その目的を達成しうるならば外形の見栄えには拘泥しない姿勢を鮮 明にし、後進に推奨している。 さらにいえば、彼の書く文章は現在(書かれ た時点)の実用一辺倒であり、後世に向かって書かれたものではなかった。

 伝えたいことが伝わり、動かしたい人々が動けば、その文章は成功している と割り切れる人が福沢であり、福沢の文章は実際そのような意図に満ちている のである。 換言すれば、福沢の文章には必ず何らかの意図があり、意図と離 れて存在し得ないのである。 そうであるから、全ての言説を対等な存在とし て平等に並べて批評することは、福沢の思想を検討する場合不適切なアプロー チとなる。

 これまでの例は私文書に類する例だったが、福沢は公文書でもこれに類する 話を残している。 適塾への留学を中津藩に届ける際、「蘭学修業」と書くと前 例がないので藩庁が認めてくれないと知ると、白々しくも医者である緒方洪庵 のところへ「砲術修業」に出かけるという、前例に則した願書を出すことに、 何の拘泥もしないのである。 名分でなく、実が取れればそれでよいというこ とだ。 福沢はこの逸話で、名分ばかりを重んじ実益を軽んじる日本人の倫理 観を暗に批判しているともいえるだろう。

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