澤木四方吉、その生涯と足跡
2018-05-25


 男鹿半島の船川港へ向かう。 澤木四方吉(よもきち)と関係の深い、大龍 寺を訪ねるためだ。 澤木四方吉については、小泉信三さんの書かれたもので 知っていた。 この旅行にも積ん読していた岩波文庫の『美術の都』を持参し、 羽田空港の集合前にパラパラやっていて、澤木が明治学院から慶應義塾に進ん だことを知った。 馬場孤蝶と同じだ(私も苗字が馬場で、明治学院中学から 慶應義塾志木高校に進んだけれど、もちろん馬場辰猪・孤蝶兄弟と親類ではな い)。 この旅行では、あとで岡田謙三も明治学院中等部から東京美術学校と知 ることになる。

 澤木四方吉は、慶應義塾の美学・美術史の初代教授、『三田文学』主幹。 筆 名は澤木梢。 小泉信三、三辺金蔵、小林澄兄とともに欧州留学。 澤木四方 吉は、明治19(1886)年12月16日に男鹿半島の船川港(現・男鹿市)で生 まれた。 父の澤木晨吉(しんきち)は、広大な山林の経営や日本海沿岸の物 流を一手に担い、船川町長を務めたり、澤木銀行を開設したりして、この地の 名望を一身に集めていた。 福沢諭吉の思想と人格を深く敬慕し、四人の男子 を慶應義塾に学ばせた。 兄弟に一軒の家を用意し、賄いの女中を置いて、悠 然と通学させていたという。 末子の四方吉は、明治32(1900)年12歳で上 京して明治学院に入学、翌年1月、慶應義塾普通部に転入した。 福沢が亡く なる一年前である。

 四方吉は大学部文学科を卒業して、普通部で英語を教え、明治45(1912) 年7月義塾海外派遣留学生として渡欧、以後留学は3年4か月に及んだ。 第 一次世界大戦までは、ベルリンとミュンヘンに滞在し、同時代の新しい芸術運 動の息吹を間近に受け、その紹介も行っている。 ミュンヘン大学では美術史 家ヴェルフリンに師事し、またカンディンスキーの知遇を得た。 大戦を契機 にロンドン、パリなどを経て、イタリアに留学、フィレンツェ、ローマなどを 拠点として北イタリアの美術を旺盛に研究した。 大正5(1916)年1月帰国、 永井荷風の後を継いで『三田文学』の主幹となり、9年間を務めた。 翌年11 月、留学中の論文、紀行文を含む『美術の都』を出版。 帰国後は、ルネッサ ンス美術に始まり、ギリシャ美術の研究に携わった。 大正7(1918)年から 慶應義塾大学文学科で西洋美術史を講義し、翌年から東京帝国大学でもギリシ ャ美術の講義を持った。

 しかし宿痾の肺結核が進行、5年の療養を経て、昭和5(1930)年、鎌倉の 自宅で亡くなる、享年43歳。 父の晨吉が四方吉の死を悼み、その冥福を祈 り、澤木家の夏の別荘「楽水亭」(井上円了が命名)を菩提寺の伽藍とするため に寄進したのが、雨風の中、われわれの訪れた大龍寺である。

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