戦没した船と海員、商船から漁船まで
2018-07-08


 枇杷の会、鎌倉・二階堂界隈吟行で、本井英先生から秩父丸と鎌倉丸のこと や、戦時中に沢山の民間船舶が徴用され多くの船員たちに戦没者を出したこと を聞き、6月30日に「秩父丸と鎌倉丸、日本郵船とソフトバンクの「二引」」 に書いた。 ネットを「太平洋戦争 民間船舶の徴用 喪失」で検索したら、 いろいろなことがわかった。

 公益法人「日本殉職船員顕彰会」や、「戦没した船と海員の資料館」が神戸市 海岸通の全日本海員組合関西地方支部内にあることもわかった。  昭和16(1941)年12月に太平洋戦争が始まった時、日本は総トン数、百ト ン以上の商船を2,445隻、639万総トンも保有していて、当時イギリス、アメ リカに次いで世界第三位だった。 しかし、3年9か月にわたる戦争が終わっ た時、日本商船隊は2,568隻、843万総トンの商船を失い、終戦時に残ってい た商船はわずかに1,217隻、134万総トンに激減、しかもその中で運航可能な 船はわずか80万総トンに過ぎなかったという。 戦時中、船舶の大消耗を補 うため、1,340隻、338万総トンの膨大な「戦時標準設計型船」が急ぎ建造さ れた。 資材を節約した、極端な簡易構造の粗悪船でしかなく、その大半も戦 禍に遭って沈んでしまった。 この戦争で日本商船隊の運航を支えた乗組員の 数は7万1千人とされているが、そのほぼ半数にあたる3万5千人以上(一説 に4万6千人とも)が亡くなり、犠牲率は50%近くに達している。 この数字 は、太平洋戦争中の日本陸海軍全将兵の犠牲率19%(参加将兵数986万人、犠 牲者87万人)と比較した場合、商船乗組員がいかに凄まじい犠牲を強いられ たかが分かる、という。(原出所:大内建二著『輸送船入門』光文社NF文庫)

 「日本殉職船員顕彰会」が調査した戦没船員数は、60,609人となっている。  所属は、陸軍、海軍の徴用船、船舶運営会(海運統制組織)である。 船員の 消耗率は43%で、14歳から20歳未満の犠牲者数は19,048人、31.43%と極め て高い。 商船ばかりでなく、漁船や機帆船が徴用されており、4,000隻を上 回る漁船や機帆船が太平洋戦争によって喪失した勘定になるという。

 「戦没した船と海員の資料館」のホームページにある、政府が発表した船舶 被害数の中に、漁船1.595隻と記されているそうだ。 その一例が、神奈川新 聞が2014年8月に掲載した『漁師たちの戦争』シリーズで報告された。 日 中戦争のさなかの昭和15(1940)年9月、神奈川日日新聞(現、神奈川新聞) が「三崎の漁船が揚子江で撃沈され、船員たちが犠牲になった」と報じた。 そ の記事が「軍事機密を明らかにした」として問題視され、執筆した樋口記者が 横須賀鎮守府に呼び出され、厳しく尋問された。 スパイの容疑は晴れたが、 同記者は鎮守府への一ヶ月出入り禁止処分を受けた。 戦局が厳しさを増す中、 民間の漁船まで軍が借り出している実情が知られることは、軍にとって都合が 悪かったのだ。 盧溝橋事件から始まった日中戦争では、陸軍は華南(揚子江 周辺地域)でも作戦を展開したから、網の目のように流れる浅い水路での兵員・ 物資輸送などの後方支援に役立つ船として、目をつけたのが漁船だった。 漁 師は操船技術が高く、海や川や気象の状況を熟知しているからだ。

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