書くことと、読んでもらえることの喜び
2018-08-23


 私は昭和32(1957)年の4月、明治学院中学から慶應義塾志木高校へ進ん で、クラブ活動はテニスでもやろうかと思っていた。 中学で軟式のテニスを やっていたからだ。 志木への東武東上線の車内で、同じ方向から通うので仲 良くなったクラスの友達に、中学で新聞をつくっていた話をした。 自慢話ぽ かったのだろう。 一年上の人が、たまたま、それを聞いていたのだ。

 慶應義塾志木高校は、私が入学した年に農業高校から普通高校に転換してい たから、一期生の私たちは先輩たちと協力して、新しい学校を第一歩からつく りあげることになる。 電車の中で、私の話を聞いていた一年上の人のお友達、 猪尾泰久さんが、新聞の発行を計画していたのだ。 新聞部はなく、文芸部が あって、そこで新聞をつくろうというので、大学で新聞を発行している人たち に相談していた。 そんなことから私に声がかかって、新聞の創刊に向けた動 きに巻き込まれることになった。

 その後の展開は、慶應義塾が創立150年を迎えた平成20(2008)年11月号 の『三田評論』「特集 学塾の歩みを記録する」の巻頭随筆「丘の上」に、「「慶 應義塾志木高新聞」百年祭記念号」と題して、書かせてもらった。 高校2年 生の昭和33(1958)年が慶應義塾創立100年の年だったからである。

 友人知人に個人通信「等々力短信」を送り続けて1109号43年、毎日ブログ 「轟亭の小人閑居日記」を更新して13年、その源を考えれば、間違いなく高 校新聞、さらには中学新聞に行き当たる。 書くことと、それが活字になって、 読んでもらえることの喜びを知ったからである。

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