加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』<小人閑居日記 2002.12.6.>
加藤秀俊さんの『暮らしの世相史 かわるもの、かわらないもの』を読んだ。 中公新書創刊40周年記念の一冊である。 加藤さんの中公新書は、学生時代 に読んだあの『整理学』をかわきりに『人間関係』『自己表現』『情報行動』『取 材学』とつづき、その他の単行本とあわせて、愛読した。 そこには科学的で、 漸進的な、明るく生きがいのある暮しの未来が、語られていたように思う。 私 が「等々力短信」を始めたのも、ひとつには加藤秀俊さんの影響があったので ある。
そこで、『暮らしの世相史』だが、かつての加藤さんの著作の印象にくらべて、 暗く、悲観的な色が濃い。 還暦をすぎて、大学人としての現役を退き、大病 をされたこともあるのだろうか。 戦後五十数年を経た世相を、しっかりみつ めなおしてみると、暗く、悲観的なものばかり、うかびあがってくるというこ とだろうか。 9つの章があり、大まかに商、衣、住、日本語、言論、宗教(「餓 鬼」の時代、「世直し」の系譜)、アメリカ、外国人を扱っている。
たとえば「餓鬼」の時代とは何か。 いまや都会の団地やマンションには仏 壇はなく、少子化は「後嗣」のない「家」の断絶をもたらす。 子孫がなけれ ば、死んだ人間の霊魂は「無縁仏」となり、現世にもどってきてもゆくところ もなくさまよう、そのさまよえる霊魂を仏法で「餓鬼」という。 そもそも、 墓をもつ、ということじたいが近代にはじまった習慣であったが、「家存続の願 い」は、わずか一世紀の理想、あるいは幻想にすぎなかったのである、と加藤 秀俊さんはいうのだ。
やさしくかくということ<小人閑居日記 2002.12.7.>
加藤秀俊さんの『暮らしの世相史』に「日本語の敗北」という章がある。 「日 本語の敗北」とは何か。 明治以来、日本語の表記について、福沢諭吉『文字 之教』の末は漢字全廃をめざす漢字制限論、大槻文彦の「かなのくわい」、羅馬 字会や田中館愛橘のローマ字運動などがあった。 戦前の昭和10年代前半、 鶴見祐輔、柳田国男、土居光知が、それぞれ別に、日本語はむずかしいとして、 改革案を出した。 当時、日本語が世界、とくにアジア諸社会に「進出」すべ きだという政治的、軍事的思想があった。 しかし、日本語を「世界化」する ための哲学も戦略もなく、具体的な日本語教育の方法も確立されなかった。 な にしろ国内で、「日本語」をどうするのか、表記はどうするのかといった重要な 問題についての言語政策が不在のままでは、「進出」などできた相談ではなかっ た。 日本は戦争に破れ、文化的にも現代「日本語の敗北」を経験した、とい うのである。
戦後、GHQのローマ字表記案を押し切って制定された当用漢字は、漢字の 数を福沢が『文字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、 ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想とした さらなる漢字の制限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速した のが、1980年代にはじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「か く」ものでなく、漢字変換で「でてくる」ものになったからだという、加藤さ んの指摘は毎日われわれの経験しているところである。 加藤さんや梅棹忠夫 さんは、福沢の「働く言葉には、なるだけ仮名を用ゆ可し」を実行して、動詞 を「かたかな」表記している。 私などは、見た目のわかりやすさから、そこ まで徹底できないで、「きく」「かく」と書かず「聞く」「書く」と書いている。 それがワープロ以降、次第次第に、「聞く」と「聴く」を区別し、最近では手で は「書けない」字である「訊く」まで使っているのだ。 「慶応」も気取って、 単語登録し「慶應」にしてしまった。 福沢のひ孫弟子くらいのつもりでいた のに、はずかしい。 深く反省したのであった。
「潜行する言論」<小人閑居日記 2002.12.8.>
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