白金の清正公、星野家の祖父、そして馬場の父
2022-09-19


 たまたま、「世界は五反田から始まった」で検索して、webゲンロンで星野博美著『世界は五反田から始まった』(ゲンロン叢書)の第1章と第2章が、無料公開されているのを見つけた。

 第1章「大五反田」の最後に、「大五反田の誕生」がある。 思わず、苦笑してしまった。 星野博美さんは、自分が属する世界の基準道路が桜田通り・中原街道であることははっきりしているが、中心点をどこに置くかで迷う。 まずは戸越銀座の家を中心点に置いてコンパスを回し、即座に、強烈な違和感に見舞われた、というのだ。 「私の世界はだいぶ五反田に引力を感じていて、五反田寄りの隣駅、大崎広小路にはシンパシーを感じるが、蒲田よりの隣駅、荏原中延は「よその土地」という感覚があり、レーダーから外れてしまう。私の世界の南の限界点は、戸越銀座と荏原中延の世界を分ける道路、26号線なのだ。」

 第1章「大五反田」は、「一 白金の清正公」で始まる。 2019年の元日、星野博美さんは、例年通り、ご両親とともに、白金高輪駅近くにある清正公(せいしょうこう・正式名称は覚林寺)へ初詣に行く。 檀那寺は桐ヶ谷火葬場近くの曹洞宗の寺だが、星野家は祖父母の代から、初詣も五月四、五日の大祭も清正公だったという。 実は、馬場の家も、五月五日の清正公大祭には、毎年必ずお参りしていた。 それは星野家の祖父、そして馬場の父も、あのあたりに住んでいたからだった。

 星野博美さんの祖父、星野量太郎は明治36(1903)年1月、外房の御宿・岩和田に、「コンニャク屋」という屋号を持つ鰯網の漁師で、あぐり船(鰯網漁船)の沖合殿(おっけどん・漁労長)勘助の六男として生まれた。 稀に見る鰯の大漁の日だったので、父勘助が「漁六郎」と名付けようとしたら、役場の人に「漁師の六男坊、そのままだっぺよ」と反対され、「あんでもかまわねえ」と丸投げした結果、「量太郎」という名前で登記された。

 その量太郎に転機が訪れたのは、大正5(1916)年のことだった。 高等小学校の成績は悪くなかったが、二人の兄があぐり船に乗っているように、このまま岩和田に残っていれば漁師の道しかない、ちょうど母方の縁者である隣家の者が、東京の芝白金三光町で町工場を開いたばかりで、小僧を探していた。 量太郎は高等小学校の卒業を待たず、上京した。 この13歳の夏から、祖父量太郎は、清正公の近くで暮らすことになったのだ。

 私の父、馬場忠三郎は、山形県の庄内地方の、明治44(1911)年7月15日の生まれ、母親にどういう事情があったのか、まったく話をしなかったのでわからないが、幼時に芝白金志田町の馬場の家の養子となった。 姉と兄がいて、この兄、つまり私の伯父は、後に山形県鶴岡市で魚屋を営んでいた。 馬場の家は、チャルメラを吹いて歩く(?当時もか)中華そばの屋台をたくさん束ねるような商売だったらしい。 御田小学校から、中央商業学校に進んだ。 大正12(1923)年の関東大震災の時は12歳(星野量太郎さんは20歳)、小学校卒業前のことだったと聞いている。

 つまり、星野量太郎さんも、私の父も、清正公界隈で育ったことになる。

(芝白金三光町と芝白金志田町については、池澤夏樹さんの朝日新聞連載小説「また会う日まで」を読んで、身近な地名、芝白金三光町、戸越、九品仏<小人閑居日記 2021.6.4.>に書いた。)

[身辺雑記]
[文化]
[歴史]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット