星野製作所は鉄工所、町工場の悲哀
2022-09-20


 星野博美著『世界は五反田から始まった』第2章「軍需工場」の「二 戻りて、ただちに杭を打て」に、「ねずみ色の工場」「金属は永遠なり」「町工場の悲哀」などがある。 星野量太郎さんは、芝白金三光町で丁稚をして技術を学び、五反田の下大崎で独立した後、昭和11(1936)年に戸越銀座の中原街道から小道を入ってじきのところに町工場を移した。 「お得意さんの多い五反田が近い」「大通りに近い」という条件を十二分に満たす土地だった。

 昭和46(1971)年、量太郎(68)妻のきよ(66)、町工場「合資会社星野製作所」の社長は二代目で、五反田生まれの長男、英男(38)、工員のほとんどは外房の中学校を卒業した若者だった。 英男と良子(36)夫妻には、9歳、6歳、5歳の三人の娘がいて、末っ子の博美さんは昭和41年丙午の生れだった。

 業種はバルブコック製造業。 液体や気体の量を調節するために、開いたり閉じたりするバルブ(弁)の接続部品を製造していた。 扱う金属は砲金(青銅)と真鍮(青銅)。 旋盤やボール盤でネジを切る、ざっくり言えば鉄工所である。 工場と家は同じ敷地内に隣接して建っていて、工場が一、家が二の割合、工場と家の間には、倉庫と、小学校の手洗い場に匹敵するほど大きな手洗い場があった。 流し台の端に浪花屋製菓の「元祖柿の種」の缶に入った「砂石鹸」が常備されていて、手にすくって塗りつけると、驚くほど油汚れがよく落ちる。 社長も工員も、食事時には、ここで念入りに手を洗い、ねずみ色の作業着とズボンをパンパンとはたき、仕事中に全身に浴びた細かい金属の粉、砲金粉、真鍮粉を払う。

 子供たちには「ホーキンコ」という名で認識されていた、この粉は厄介な代物だった。 どんなに振り払っても体のどこかに付着して家に入り込んでしまい、手足に突き刺さる。 「ホーキンコ」は、裸足で家の中を歩き回る子どもの柔らかい皮膚を集中的に狙った。 小さいので、皮膚の中に入り込む。 そうしたら、トゲ抜きで抜くことができず、裁縫の針を皮膚に刺して、肉をかき分け、金属片を掘り出す。 これが痛いのである。

 そこで思い出したのは、中延の家の隣(第二京浜国道寄り)が鴨川(三郎次?)さんという鉄工所で、機械の音がしていた。 片隅にクルクルとなった金属の削りカスが積んであって、錆びた臭いがした。 工員さん達の姿も見かけて、後の寅さん映画だと「労働者諸君!」と声をかけたくなるような状況だったが、騒がしいことはなかった。

 星野製作所の英男社長は忙しかった。 工員たちは夕方6時の定時に仕事が終わり、食事と風呂を済ますと近所のアパートに帰ったが、それが全て終った8時頃から社長一家の食事となった。 英男社長は、食後再び工場に行き、一人で11時頃まで仕事をするのが常だった。 それはまさに町工場の悲哀だった。 親工場と町工場は、ピラミッド構造をしていて、発注された部品は下請け、孫請け、さらにその下へと下ろしていく過程で、納期に少しずつロスが生じる。 ヒエラルキーの末端に近い星野製作所に注文が到達した時点で、納期はいつでも、すぐそこに迫っていたのだ。 「特急で頼むよ」という「無理を聞き、納期を守り、よい製品を作る」ために、社長の長時間労働が必須だった。

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