「軍需工場」、バルブコック製造、アンプル製造
2022-09-21


 『世界は五反田から始まった』の第2章の題は「軍需工場」だった。 9月14日に稲泉連さんの書評から、「半径数キロメートルの場所からでも、「世界」は確かに始まっている。町工場で作られる小さな部品が戦闘機に使われるように。」と書いた。 バルブコック製造業の星野製作所は、「軍需工場」だったのだ。 五反田が焼け野原になった「5月24日の空襲」が、米軍側発表で525機というB29が来襲、渋谷、芝、荏原、目黒、大森、蒲田の各区が焼け野原になった大空襲で、工場地帯だけを狙ったものではなかったとは思うが…。

 父、馬場忠三郎のことに戻ってみる。 昭和20(1945)年5月24日の空襲の時、明治44(1911)年生まれの33歳の父が、なぜ軍隊に行かず、家に家族といたのかの問題である。 4歳の私をおぶって避難してくれたおかげで、私は命を拾い、今日81歳まで生きているのだ。 父は、19日に書いた中央商業学校(現、中央学院大学)を出た後、家の仕事は継がず、小さな貿易商社に勤めた。 家業は働いていた養母の親戚が継いで、後に武蔵小山で中華麺の製〓業の会社になった。 このへんからは、子供の頃の聞きかじりで、若干、あやしいのだが…。 父は、小貿易商社で小型電球などの雑貨の輸出を手がける内に、家内工業で注射のアンプルを製造する職人たちと取引ができた。 その一軒に、ご主人が出征したか何かで、奥さんが困っている家があり、その仕事を助けている内に、自分で経営するはめになったという。 それが、目黒の清水町にあった馬場アンプル製作所になっていくことになる。

 注射のアンプルは、当然、軍の需要があり、「軍需工場」という面があったのだろう。 私が物心ついた戦後も、軍の将官だった人が顧問でいたり、佐官クラスだった人が総務にいたりした。 父は、自動車の運転をしたので、戦争末期、やはりトラック部隊か何かに召集されたけれど、「即日帰郷」になったという。 どういう事情があったのか、結局、詳しい話を聞いたことはなかった。 地域の翼賛壮年団で、近くのお寺の住職などと活動し、学童疎開地の視察などには行っていた。

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