『ガリバー旅行記』の日本
2024-04-04


 ラグナグ国の王様は、ガリバーに宮廷で何か官職についたらどうかと何度か勧めてくれたのだが、ガリバーの母国に帰る意志が固いことを理解すると、国を出る許可を与え、日本の帝(みかど)宛ての親書も直々に書いてくれた。 餞別として444枚(この国では偶数が尊ばれる)の金貨とダイヤモンドを賜り、ダイヤはのちに英国で1100ポンド(イギリス国立公文書館の「通貨コンバーター」によれば、現在の1800万円弱)で売れた。

 1709年5月6日、王様に丁重な暇乞いをし、島の南西部にある王所有の港グラングウェンストールまで護衛をつけてもらう。 6日のうちに日本へ向かう船が見つかり、15日間の船旅を経て、ザモスキという日本の南東部にある小さな港町に到着した。 狭い海峡の西の端に位置する町で、この海峡が北へのびて腕のように細長い海に入り、その北端に都イェドがある。

 注釈に、ザモスキ(Xamoschi)(ザモスキ)については、房総半島北部の下総という説(Shi-mo-saを逆さに読めばXamoschiとほぼ同じ音になる。この説に従うならむしろ「ザモシ」と読むのが適切)と、神奈川の観音崎だとの説(nをひとつ抜いてKannosakiとし、これを筆記体で書くとXamoschiに似ている)などがある。

 上陸の際、ガリバーがラグナグの王から帝(みかど)宛ての親書を税関吏に見せると、町の役人たちは国の公式使節として扱ってくれ、馬車と召使いを出してくれ、イェドに赴く費用も負担してくれた。

 都に着いて、帝に謁見を許され親書を差し出すと、オランダ人との交渉に雇われている通訳が、その内容を陛下に伝え、願いごとがあれば言うがよい、ラグナグ王とは君主同士のつき合い、何でも叶えてやろう、とのお言葉を頂いた。 ガリバーは、あらかじめ決めていたとおり、自分はオランダ人商人で、遠い異国で船が難破し、ようやくラグナグにたどり着き、ここへ来た、この地ではわが同国人が頻繁に貿易をさせていただいていると聞いているので、彼らに同行して欧州に戻れればと考えている、ナンガサックまで安全に移動できるようにお取り計らいいただければ、誠に有難いと、精いっぱいの低姿勢でお願いした。

 さらに、ガリバーは、わが庇護者ラグナグ国王とのご交友に免じて、通常オランダ人に課される踏み絵を免除していただけないか、自分がこの国に参ったのは、あくまで不運の巡り合わせ、貿易を行う気は毛頭ないので、とお願いした。 帝は少し驚かれ、「踏み絵を尻込みしたのはおそらくお前が初めてだ。本当にオランダ人か信じられなくなってきたぞ、実はキリスト教徒なのではないか。だがまあいろいろ事情はあるようだし、何よりもまずラグナグの王とのつき合いもあるから、ここは特別に大目に見ることにする。とはいえ、事は手際よく運ばないといけない。係官には、いわば“うっかり”忘れたというふうにお前を通すよう言わないと。ほかのオランダ人たちが知ったら、船旅の道中、お前の喉を切り裂きかねないぞ」とおっしゃる。 格別のお計らい、誠に忝く存じます、と謝意を伝えると、幸い、たまたま軍隊がナンガサックに行軍する予定だったので、ガリバーを彼の地まで無事届けるよう命令が下された。(註釈に、オランダ人は商売(貿易)を重視して、キリスト教徒であること(布教)を主張せず、踏み絵にも応じていると考えられていた、とある。)


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