嵩、敗戦の翌年1月に復員、弟の千尋海軍少尉は戦死
2025-06-18


 敗戦後、嵩たちの部隊が帰国できたのは、年が明けてからだった。 昭和21(1946)年1月23日に上海港から復員船に乗り、1月25日に佐世保港に着いた。 嵩は自分の戦争体験について、80歳近くになるまで書いたり話したりすることがなかった。 アンパンマンのヒットによって取材を受けることが増え、戦争について質問されるようになった。 その頃には戦争体験者が減っていて、嵩は自分のような者にも戦争の理不尽さを語り残す役割があるかもしれないと思うようになったのだった。

 佐世保港の検疫所で、頭からDDTをかけられて全身真っ白になり、解散式があって、故郷までの切符を受け取って汽車に乗った。 途中、広島駅にさしかかったとき、街ごとなくなっていたのには、息をのんだ。 空襲で焼かれた街をいくつも見た嵩は、自分の故郷も焦土となっているのではないかと思った。 岡山県の宇野港から四国に渡り、汽車で後免駅に降り立ったとき、嵩は夢を見ているような気がした。 昔と同じ風景が目の前に広がっていたのだ。

 なつかしい家にたどりつき、木戸を開けると、伯母のキミが出てきた。 「お母さん、ただいま帰りました」と言うと、伯母は泣きくずれた。 お互いに連絡する方法がなく、伯母は嵩の生死がわからないまま、ずっと帰りを待っていたのだ。 嵩の手をとって、伯母は言った。 「ちいちゃんは……、死んだぞね」

 ちいちゃん・千尋は、昭和16(1941)年春、旧制高知高等学校を卒業して京都帝国大学法学部に進んだ。 当時の大学は三年制で、千尋の卒業は昭和19(1944)年3月のはずだった。 だが、修業年限が6か月短縮され、昭和18(1943)年9月に繰り上げ卒業となった。 徴兵されて陸軍に入るのでなく、千尋は海軍予備学生に志願した。 海軍予備学生は、飛行科と兵科に分かれていた。 千尋が採用されたのは兵科第三期で、第二期では五百名程度だったのが、三千五百名前後に大幅に定員が増えていた。 千尋は、大学の卒業式から一週間後の10月1日に横須賀第二海兵団に入団し、まずは海軍軍人としての基礎をたたき込まれた。 翌昭和19(1944)年2月、専門に分かれて教育を受ける術科学校に進む。 術科課程を終えて5月に少尉に任官したあと、駆逐艦・呉竹(くれたけ)の水測室に配属された。 水中音から敵の潜水艦の位置を探知する水測室は、船底に近い位置にあり、もし敵の水雷が命中すれば生き残る可能性はまずない。

 昭和19(1944)年12月30日、千尋を乗せた呉竹は、台湾とフィリピンのあいだにあるバシー海峡で、米潜水艦レザーバックの雷撃を受けて沈没した。

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