句会では「湧水で洗ひ上げたる蕪を買ふ」に3票。 お鷹の道の途中、国分 寺手前の真姿の池のところの、地主さんだろう本多さん(何軒かある)という 大きな農家が取れたての野菜を直売していたのだ。 それぞれ百円の蕪と小松 菜を買う。 おかげで、3票獲得した。 英先生の選にも入り「洗ひ上げたる」 の、農家が少ない収穫を丁寧に扱っている感じがいい由。 あとで、買った現 物を見た先生、「句の蕪の方がいい」と、おっしゃる。 「蕪」は冬の季題。 ほ かに「盛り過ぐ萩のトンネル風通る」を「盛り過ぐる萩のトンネル風通る」と 添削して、選んでいただく。 上五の字余りは、あまり気にする必要はないそ うだ。 むしろ叙述の「続き」加減と、「切れ」を考えた方がよいという。 ほ かに「東屋で句ひねり食はれ秋の蚊に」「殿ヶ谷戸秋の七草みな素朴」を英雄子 (ひろし)さんに選んでもらった。 自分で選句したのと同じ数を選ばれ、ま ずまずの成績になったのは、ひとえに蕪を買ったおかげ。
英先生は選評の中で、初心の者の失敗の例に、誰にも選句されなかったので 誰の句か分からないがと前置きして、「午後一時酔ひ兆したる酔芙蓉」を挙げた。 言葉の「理屈」に陥っているというのだ。 狙いや工夫が、見え透いている。 こういう句は、江戸中期から後期にかけては珍重されたが、のちに「月並」と 排されるようになった。 「採らぬ親切」ということがある。 あとで、選ば れなかった句を見直して、反省するように、と。 初心の人は、吟行でつくっ た句の内、つい狙いや工夫のある句を出して、失敗しがちだ。 むしろ出さな かった句のほうが、素直でいいことがある(きのう書いた私の10句は、どう だろうか)。 そう言われてみれば以前、俳句は「努力しちゃあいけない」、あ ざとくない句を、素直に、愚直につくっていくように、と教わった。
当日の本井英主宰の御句。
水音に秋海棠の花明かり
茶の花の咲きこぞりたる閑かさよ
秋冷の芝生に日射もどるかな
国分寺跡の基壇の草紅葉
湧いてすぐ野川となれり水の秋
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