極彩色の鮮麗な絵に、孤独と哀しみ?
2025-07-06


 錦高倉青物市場は、西魚屋町・中魚屋町・貝屋町・帯屋町の四町から成り、この時から百十年ほど前の寛永年中に公許を得た立売市場である。 当代で四代を数える枡源は、時に中魚屋町の町役に任ぜられる老舗、出入りの百姓は三十人を超え、奉公人の数も市場で一、二を争うほど多い。 だが枡源の商いはすべてお清と幸之助、新三郎が切り盛りし、源左衛門が自室を出るのは、せいぜい帯屋町に構えた別宅に行くか、月に二、三度、昵懇の相国寺慈雲院主・大典顕常を訪ねる時ぐらいであった。 幸之助は三十七歳、新三郎は三十歳、通常、商家の二男や三男は養子に行くか、暖簾分けして別家を立てるのだが、肝心の源左衛門のせいで半端に店を背負わされ、いまだ嫁取りも出来ぬまま、枡源に飼い殺しの身の上であった。

 この日、源左衛門は枡源の先行きについて相談すると言って、町役や親戚を集めた。 近江の醒ヶ井から源左衛門の妻となったお三輪の末弟で、その結婚の翌年、十一歳の時に枡源へ出て来て、今は帯屋町の玉屋伊右衛門の店にいる弁蔵も、伊右衛門と共に呼ばれていた。 源左衛門は、今年四十、不惑を迎え、これまで店にも出んと、好き勝手に暮してきた身だが、この辺でそろそろ隠居しようと思う、と言い出した。 そこへ相国寺大典の名代、行者(従僧)の明復(みょうふく)も到着した。 源左衛門は、さらに、「弟の幸之助と新三郎には暖簾分けを許し、別家、そこにいてはる弁蔵はんを妹の志乃の婿にいただき、枡源を継いでもらおうと思うてます、伊右衛門はんには、すでにご内諾をいただいている。お志乃の気持ちは知らへんけど、まあそれはおいおいどうにかすればええこっちゃ」と。

 弁蔵の顔は怒りのあまり、青ざめている。 弁蔵が枡源へ出て来た時、一年ぶりに再会した姉は、別人かと息を飲むほど痩せ衰えていた。 お三輪を死に追いやったのは、この枡源の人々。 今更その埋め合わせのように店を譲ると言われて、へえそうどすかと首肯できる道理はない。 母親のお清は、悲鳴に似た声で、「お志乃は妾の子なんやで。いや、ほんま言うたら、うちの人の子かどうかも知れたもんやあらへん。四代続いた枡源を、どこの馬の骨か分からへん女子と、うちの土蔵であてつけがましく首をくくった嫁の弟に継がせるのが、一番ええやて、言うのかいな」。 弁蔵が血走った眼で、「今、なんて言うた。姉さんが首を吊ったんは、あんたらがよってたかっていじめたからやないか。調子のええ仲人口で、いざ嫁いできたら旦那は商いより絵が好きな変わり者。その上、姉さんを店にも出さず、早う子を産め子を産めといびり倒してからに……」

 弁蔵が席を飛び出し、お志乃が後を追う。 錦天神の階(きざはし)に座っていた弁蔵に、お志乃は話す。 「兄さんは、兄さんなりに弁蔵はんに詫びるつもりで、あんなことを言い出しはったんやと思います。どうか許してやってくれはらしまへんか」

 お志乃は源左衛門が今なお、妻の死という過去に捕われたままであることを知っていた。 ただひたすら、花鳥のあるがままを写す狂逸の絵。 人に交わらず、お三輪の死に場所を眼前にしたあの部屋で、そんな絵を描くことで、みすみす妻を死なせた怯懦(きょうだ)な己に罰を与え続けているのだ。

 お志乃は弁蔵に、その部屋で源左衛門の絵を見せた。 所狭しと掛け廻された鮮麗な絵には、一つとして生きる喜びが謳われていない。 そこに描かれるのは、いずれ散る運命に花弁を震わせる花々、孤立無援の境地をひたすら噛みしめるばかりの鳥たち。 身の毛がよだつほどの孤独と哀しみが、極彩色の画軸から滔々と溢れ出していた。

[文芸]
[美術]
[文化]
[歴史]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット