<八月や六日九日十五日>という俳句
2025-08-07


 8月2日の朝日新聞「天声人語」は、沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日の後も、沖縄本島の西の伊江島で、2人の兵士が終戦を知らぬままガジュマルの木の上に身を潜めていた話から書き出している。 2人の体験をもとにした映画『木の上の軍隊』が公開中で、米軍が作った飛行場を見つめて、新兵は上官に「たぶん島はもとに戻らないと思うんです」と涙を流す。 伊江島の35%はいまも米軍基地が占めている。 現在は過去の光に照らされて始めて十分理解できるようになる、とは歴史家E・H・カーの言葉である。 あの戦争がもたらしたものは何だったのか。 そして最後に、「天声人語」子は、「<八月や六日九日十五日>。広島・長崎の原爆忌、そして終戦の日。ひときわ強く鎮魂と不戦を誓う、戦後80年の8月がめぐって来た。」と結ぶ。

 この句、<八月や六日九日十五日>に、作者の名はない。 今、インターネットを<八月や六日九日十五日>で検索すると、16番目に2018年4月8日の「轟亭の小人閑居日記」の「<八月や六日九日十五日>という俳句」が出てくる。 それを、再録させてもらう。

   <八月や六日九日十五日>という俳句<小人閑居日記 2018.4.8.>

 2月25日の「等々力短信」第1104号<時ものを解決するや春を待つ 虚子>に本井英主宰の「旧正月のこと」が掲載されたと書いた朝日新聞朝刊「俳壇歌壇」のコラム「うたをよむ」だが、3月26日は小林良作さん(俳人協会会員)の「「八月や」が伝えるもの」だった。 小林良作さんは、<八月の六日九日十五日>と、先の大戦によるご自分の家の辛苦を詠んだ句を所属結社に投句し、類似句があると指摘されたことから、初作者と作句の背景を追い、一昨年(2016年)『八月や六日九日十五日』という本にまとめた。 この句は、無名の多くの人々に詠まれてきたという。 上五には「八月に」「八月は」などもあるが、大半は「八月や」だそうだ。

 実は、私も<八月や六日九日十五日>という句を詠んでいた。 『夏潮』2013(平成25)年8月号の課題句の兼題が「八月」で、八月といえば敗戦の八月十五日だと思い、あれこれ考えている内に、六日九日の広島長崎の原爆記念日を思い出したのだった。 自分では、うまくまとまったと思って投句し、掲載されていた。 先行句のあることは、まったく知らなかった。

 私は、小林良作さんのご本『八月や六日九日十五日』(「鴻」発行所出版局・平成28年7月)のことを、『夏潮』のお仲間、前北かおるさんのブログ「俳諧師」2016年8月15日の「小林良作『八月や六日九日十五日』」で知った。 小林良作さんは、上記の句を「鴻」の全国大会に投句し、事務局から先行句の存在を指摘されたことをきっかけに、先行句と作者を探し、その調査レポートをこの本にまとめた。 この句の句碑が大分県宇佐市にあることから、広島県尾道市の医師だった故諌見(いさみ)勝則氏が1992年に詠んだのが最初らしいと突き止めて、現地に行ったりしているという。 前北かおるさんは、この句をどこかで読んだことがあったような気がすると書いていたので、私は『夏潮』の課題句に投句して掲載されたので、その句かもしれないと、コメントしたのであった。

 そこで、小林良作さんのコラム「うたをよむ」だが、本の出版後も新たな情報が寄せられ、今は故小森白芒子(はくぼうし)氏の(1976年作句)までたどることができたという。 小森氏は終戦時、対中国放送に従事しており、上記の諌見氏は海軍兵学校にいて広島上空の原爆雲を目の当たりにし、後年、医師として長崎と広島の被爆者に関わった。 小林さんは調べるほどに、初作者を追うことを超えた大事なことに気付かされる。 単純に月日を並べたかに見える、この句から、歴史的事実の重大さと、それぞれの作者が遭遇した深く重い人生を読み取れるのだ。 改めて俳句の持つ力を思い知った、という。

  <八月や六日九日十五日  詠み人多数>


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